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	<title>僕らの神話が終わった日　─ そして希望の物語が始まる</title>
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		<title>Chapter1</title>
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		<pubDate>Sun, 31 Jul 2011 01:30:03 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://bokura.jp/?p=7</guid>
		<description><![CDATA[&#160; 　僕たちはいま、かつてない苦難の時代を迎えています。予想もしていなかった災厄と、グローバリゼーションという新たな世界の襲来。僕らはどのように生き延びていくことができるのか。そういう困難な課題に直面しています。 　背中を丸めてただ見ないですませようという選択もあるでしょう。犯人を捜し出し、吊し上げることで鬱憤を晴らす人もいるでしょう。それで何もかもが過ぎ去り、ふたたびあの暖かな日差しが戻ってくるのなら、それでもかまわない。 　でもあの晴れた午後は、もう決して戻ってこないのです。 　だったらいま、僕らはやるべきことは何か。 　それは僕らの「これから」を、今こそ探し求めること。 　その探し求める過程を大切にし、つねに探し求めてやまないこと。 　企業社会が元気だった高度経済成長時代のように、もうそこには答はありません。だれも「安定した人生」のような答は用意してくれていないのです。 　しかし僕らは、過去のできごとからさまざまに学ぶことはできる。その学びを教訓として、「これから」を考えることはできるのではないかと思います。 　だからまず過去をさかのぼり、歴史の霧の遠くを今こそ探し求める時が来ているのです。 　そこには失われた記憶が、きっと残っていることでしょう。六十六年先の未来に向けて、静かな光に満たされ遺されていた記憶が。 　そしてその記憶が指し示す未来は、すでに約束されていたことなのかもしれません。 敗戦と三島由紀夫 　一九四五年。敗戦の夏。 　作家三島由紀夫はこの年の青い季節を思い出して、書きました。 「また夏がやってきた。このヒリヒリする日光、この目くるめくような光りの中を歩いてゆくと、妙に戦後の一時期が、いきいきとした感銘を以て、よみがえってくる。あの破壊のあとの頽廃、死ととなり合せになったグロテスクな生、あれはまさに夏であった。かがやかしい腐敗と新生の季節、夏であった」（一九五〇年八月、『新潮』） 　三島はこのときちょうど二十歳。東京帝国大学の学生でした。徴兵検査では乙種合格となり、戦争末期の四五年二月に応召されます。本籍地の兵庫県で入隊検査を受けますが、風邪を引いていた彼を軍医が胸膜炎と誤診し、からくも入隊を免れました。 　東京大空襲をはさんで五月、勤労動員にかり出され、神奈川県海軍高座工廠の寮に入りました。この高座工廠というのは戦争末期につくられた兵器工場で、「雷電」などの戦闘機が製造されていました。座間市と海老名市の市境あたりです。 　三島の仕事は、図書館の管理でした。図書館といっても、大学から持ってきた本をバラックの中に並べただけです。動員先でまで勉強をしようなんて学生は稀でしたから、仕事はほとんどありませんでした。ほんものの肺結核を病んでいた相棒の学生と二人で、三島は窓の外に広がる夏野の光景を眺めながら、ただ日々を過ごしていました。 　七月末、あるしんとした暑い日。いつものように窓に肘をついていると、外からこんな会話が聞こえてきます。 「戦争はもうおしまいだって」 「へーえ」 「アメリカが無条件降伏をしたんだって」 「へえ、じゃあ日本が勝ったんだな」 　この会話を聞いた三島は記します。 「目の前には夏野がある。遠くに兵舎が見える。森の上方には、しんとした夏雲がわいている。……もし本当にいま戦争がおわっていたら、こんな風景も突然意味を変え、どこがどう変るというのではないが、我々のかつて経験したことのない世界の夏野になり森になり雲になる。私は、何かもうちょっとで手に触れそうに思える別の感覚世界を、その瞬間、かいま見たような気がしたのである」（一九五〇年八月十四日、毎日新聞） 　見慣れた景色が、別の光を帯びて見えるようになる。 　見慣れた色が、新しい別の色に見える。 　焼け跡の中で見た青い空は、そうした期待をいだかせるのに十分な鮮やかさだったのかもしれません。 青い空とリンゴの唄 　この時代の有名な流行歌に「リンゴの唄」があります。「赤いリンゴに口びるよせて　だまってみている青い空」 　この歌をうたった並木路子さんは三島由紀夫より四歳年上。五歳まで台湾ですごしました。東京の小学校を卒業してから松竹少女歌劇団に入団し、歌姫への道を歩みはじめます。 　彼女の思春期には、戦争が色濃く影を落としています。 　次兄は兵士でした。十八歳で麻布三連隊に入隊し、そして部隊は翌年二・二六事件を引き起こします。青年将校は逮捕され、連隊の兵士たちはそのまま満州へと送られました。面会どころか、家族に連絡もないままの処分だったといいます。そして日中戦争。銃撃戦で足を負傷し帰国しますが、太平洋戦争開戦後に再び招集され、そして二度と戻りませんでした。 　並木さんの栄えある初舞台は、完成したばかりの浅草国際劇場。しかしこの年には二・二六事件に兄が巻き込まれ、翌年夏には中国の盧溝橋で日本と中国の軍隊が衝突し、日中戦争が始まります。 　そして歌劇団の舞台もロマンチックな外国調のものから、軍国調一色へと変わっていきます。戦地の兵士のために慰問にも出ていくようになります。 　彼女の初恋の人も、海軍将校として特攻出撃して帰りませんでした。 　立教大学の学生だった上田四郎さん。ポンというニックネームでした。学徒出陣でした。 　並木さんはある日、外出を許されたポンに会うことができます。上着が短く、ズボンがすうっと長い濃紺の軍服。腰に短剣を吊るその姿。でも短い逢瀬の時間はあっという間に終わりが来てしまいます。 「両国まで送るわ」 &#8230; <a href="http://www.bokura.jp/2011/07/chapter1/">Continue reading <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div class="cnt"><img class="alignnone size-full wp-image-8" unselectable="on" oncontextmenu="return false" galleryimg="no" title="「これから」を今こそ探そう"  alt="「これから」を今こそ探そう" src="http://bokura.jp/wp-content/uploads/2011/07/img_chapter1.jpg" alt="" width="431" height="560"></div>
<p>&nbsp;<br />
　僕たちはいま、かつてない苦難の時代を迎えています。予想もしていなかった災厄と、グローバリゼーションという新たな世界の襲来。僕らはどのように生き延びていくことができるのか。そういう困難な課題に直面しています。<br />
　背中を丸めてただ見ないですませようという選択もあるでしょう。犯人を捜し出し、吊し上げることで鬱憤を晴らす人もいるでしょう。それで何もかもが過ぎ去り、ふたたびあの暖かな日差しが戻ってくるのなら、それでもかまわない。<br />
　でもあの晴れた午後は、もう決して戻ってこないのです。<br />
　だったらいま、僕らはやるべきことは何か。<br />
　それは僕らの「これから」を、今こそ探し求めること。<br />
　その探し求める過程を大切にし、つねに探し求めてやまないこと。<br />
　企業社会が元気だった高度経済成長時代のように、もうそこには答はありません。だれも「安定した人生」のような答は用意してくれていないのです。<br />
　しかし僕らは、過去のできごとからさまざまに学ぶことはできる。その学びを教訓として、「これから」を考えることはできるのではないかと思います。<br />
　だからまず過去をさかのぼり、歴史の霧の遠くを今こそ探し求める時が来ているのです。<br />
　そこには失われた記憶が、きっと残っていることでしょう。六十六年先の未来に向けて、静かな光に満たされ遺されていた記憶が。<br />
　そしてその記憶が指し示す未来は、すでに約束されていたことなのかもしれません。</p>
<h3>敗戦と三島由紀夫</h3>
<p>　一九四五年。敗戦の夏。<br />
　作家三島由紀夫はこの年の青い季節を思い出して、書きました。</p>
<p>「また夏がやってきた。このヒリヒリする日光、この目くるめくような光りの中を歩いてゆくと、妙に戦後の一時期が、いきいきとした感銘を以て、よみがえってくる。あの破壊のあとの頽廃、死ととなり合せになったグロテスクな生、あれはまさに夏であった。かがやかしい腐敗と新生の季節、夏であった」（一九五〇年八月、『新潮』）</p>
<p>　三島はこのときちょうど二十歳。東京帝国大学の学生でした。徴兵検査では乙種合格となり、戦争末期の四五年二月に応召されます。本籍地の兵庫県で入隊検査を受けますが、風邪を引いていた彼を軍医が胸膜炎と誤診し、からくも入隊を免れました。<br />
　東京大空襲をはさんで五月、勤労動員にかり出され、神奈川県海軍高座工廠の寮に入りました。この高座工廠というのは戦争末期につくられた兵器工場で、「雷電」などの戦闘機が製造されていました。座間市と海老名市の市境あたりです。<br />
　三島の仕事は、図書館の管理でした。図書館といっても、大学から持ってきた本をバラックの中に並べただけです。動員先でまで勉強をしようなんて学生は稀でしたから、仕事はほとんどありませんでした。ほんものの肺結核を病んでいた相棒の学生と二人で、三島は窓の外に広がる夏野の光景を眺めながら、ただ日々を過ごしていました。<br />
　七月末、あるしんとした暑い日。いつものように窓に肘をついていると、外からこんな会話が聞こえてきます。</p>
<p>「戦争はもうおしまいだって」<br />
「へーえ」<br />
「アメリカが無条件降伏をしたんだって」<br />
「へえ、じゃあ日本が勝ったんだな」</p>
<p>　この会話を聞いた三島は記します。<br />
「目の前には夏野がある。遠くに兵舎が見える。森の上方には、しんとした夏雲がわいている。……もし本当にいま戦争がおわっていたら、こんな風景も突然意味を変え、どこがどう変るというのではないが、我々のかつて経験したことのない世界の夏野になり森になり雲になる。私は、何かもうちょっとで手に触れそうに思える別の感覚世界を、その瞬間、かいま見たような気がしたのである」（一九五〇年八月十四日、毎日新聞）</p>
<p>　見慣れた景色が、別の光を帯びて見えるようになる。<br />
　見慣れた色が、新しい別の色に見える。<br />
　焼け跡の中で見た青い空は、そうした期待をいだかせるのに十分な鮮やかさだったのかもしれません。</p>
<h3>青い空とリンゴの唄</h3>
<p>　この時代の有名な流行歌に「リンゴの唄」があります。「赤いリンゴに口びるよせて　だまってみている青い空」</p>
<p>　この歌をうたった並木路子さんは三島由紀夫より四歳年上。五歳まで台湾ですごしました。東京の小学校を卒業してから松竹少女歌劇団に入団し、歌姫への道を歩みはじめます。<br />
　彼女の思春期には、戦争が色濃く影を落としています。<br />
　次兄は兵士でした。十八歳で麻布三連隊に入隊し、そして部隊は翌年二・二六事件を引き起こします。青年将校は逮捕され、連隊の兵士たちはそのまま満州へと送られました。面会どころか、家族に連絡もないままの処分だったといいます。そして日中戦争。銃撃戦で足を負傷し帰国しますが、太平洋戦争開戦後に再び招集され、そして二度と戻りませんでした。<br />
　並木さんの栄えある初舞台は、完成したばかりの浅草国際劇場。しかしこの年には二・二六事件に兄が巻き込まれ、翌年夏には中国の盧溝橋で日本と中国の軍隊が衝突し、日中戦争が始まります。<br />
　そして歌劇団の舞台もロマンチックな外国調のものから、軍国調一色へと変わっていきます。戦地の兵士のために慰問にも出ていくようになります。</p>
<p>　彼女の初恋の人も、海軍将校として特攻出撃して帰りませんでした。<br />
　立教大学の学生だった上田四郎さん。ポンというニックネームでした。学徒出陣でした。<br />
　並木さんはある日、外出を許されたポンに会うことができます。上着が短く、ズボンがすうっと長い濃紺の軍服。腰に短剣を吊るその姿。でも短い逢瀬の時間はあっという間に終わりが来てしまいます。<br />
「両国まで送るわ」<br />
　両国の駅まで来ると、今度はポンが言います。<br />
「これから二重橋へ行こう」<br />
　二人で市電に乗り、お堀端をただ並んで歩きます。「おい、おい」と警官に呼び止められます。「いま日本は戦争をしてるというのに、君は海軍の軍人だろう。この重大な戦局に女と歩いてるとは何ごとだ」<br />
　交番を出て東京駅まで戻り、省線に乗り、両国駅から家まで送ってもらいます。「さよなら」と別れたのに、ひとりで帰って行くポンの後ろ姿を見ているうち、「ポンの身にもしものことがあったらどうしよう」と不安になり、追いかけて「駅まで送るわ」。<br />
　そうして両国駅まで一緒に行くと、今度はポンがまた彼女を家まで送ってくれて……気がつけば送ったり送られたりを、三度も繰り返していました。ふだんはとても遠く感じる両国駅から家までの距離が、その日は本当に短く感じたとのちに並木さんは振り返っています。<br />
　ポンが戦地に行ってしまってからも、並木さんは彼と結婚するのだと決めて「ポンが帰ってきたら」「ポンが帰ってきたら」と口ぐせのように繰り返していました。<br />
　でも戦争が終わっても、ポンは帰ってきませんでした。「リンゴの唄」が流行し、並木さんの名前が知られるようになっても、ポンは現れませんでした。<br />
　ポンが土浦の航空隊からボロボロの粗末な戦闘機に乗って出撃したのを並木さんが知ったのは、戦争が終わってから四年も経った後のことでした。</p>
<p>　そして一九四五年三月九日、東京大空襲。<br />
　その日、並木さんの気持ちは躍っていました。軍を慰問し、食パンとバターをお土産にもらったからです。このころパンといえば、配給の小麦粉がほんの少し入っているだけで後はサツマイモという、パンよりはふかし芋に近いような手製のものしかありません。正真正銘のパンを食べるのは本当に久しぶりで、母と二人で「こんなおいしいものがあったのね」と言いながら夕食をすませたのです。<br />
　そして日付が変わる深夜。Ｂ２９の爆撃が始まります。<br />
　窓の外には、大きな花火のように焼夷弾が落ちてくるのが見えます。少女歌劇団の制服と防空ずきんを身につけ、母の手を握りしめて並木さんは逃げました。火の中をくぐり抜け、水のあるところに逃げようと隅田川へと向かったのです。<br />
　川のそばには逃げてきた人がたくさんいました。川の上には火の玉が浮いているように、火の塊が燃えながら流れています。焼夷弾の油の塊が水に浮いていたのでしょう。また浮かんでいる船もどれもが燃えていて、川に飛び込んでも身体に火がついてしまいそうでした。<br />
　でも来た道を戻っても、そこには猛烈な業火が&#8212;。<br />
　並木さんは意を決して川に入ろうと決め、母に「どのぐらい深いか見るから、ここで待っててね」と伝えます。そして両手で堤防にしがみつきながら足を入れていったそのとたん、母は何を勘違いしたのか自分も川の中に飛び込んでしまったのでした。並木さんはあわてて母の襟首をつかんでひきあげようとしましたが、しかしそれっきり意識を失ってしまいました。<br />
　そのまま彼女は流され、そのうちに「つかまれ、つかまれ」と誰かが言っているのが夢の中のように聞こえ、そうして水の中から引っ張り上げられて助かったのです。<br />
　どこかの工場のようでした。逃げてきた人がたくさんいました。工場の周囲にもたくさんの焼夷弾が落とされ、人々はバケツリレーで必死の消火活動を続けています。その姿は炎にあかあかと照らし出され、暗闇の中で人の顔までがくっきりと見えていました。まるでどこかで撮影している映画か何かのシーンのように。<br />
　そして夜が明けていきます。焼死体がそこらじゅうに転がる凄惨な風景の中を歩き続け、家のあった場所にたどり着きました。<br />
　何も残っていませんでした。</p>
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		<title>Chapter2</title>
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		<pubDate>Sun, 31 Jul 2011 01:29:38 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[「明るい気持ちになんてなれない」 　東京大空襲をからくも生き延びた並木路子さん。彼女は遠い親戚の家に身を寄せ、その日から行方不明の母を捜し続けます。行けども行けどもだだっぴろい焼け野原。 　そして三日目、警察から母らしき遺体が見つかったと連絡があります。 　増上寺にずらりと並べられたお棺。こんなにもたくさんの人が亡くなったのかーー。お棺の中の母は大きな傷もなく、生きていたころの姿のままで横たわっていました。 　母は水中に飛び込んだ瞬間に心臓麻痺を起こして亡くなったと知らされました。母がただひとつ身につけていたのは、腹巻きの中に入れていた並木さんの給料袋三通。それを知らされたとき、涙がわぁっと出てきて止まらなくなります。 　「やっぱりお母さんだなあ、私から渡したお金を大事に持っていてくれて。これを持っていなかったら、私はいつまでもお母さんがどうなったかわからず、お母さんもそのまま骨になっていたかもしれない。よかったなあ……」 　でも運命は過酷です。次兄を失い、母を失い、そして南方に出ていた父までもが消息を絶ちました。 　父の行方がわかったのは、戦後になってからです。パラオから日本に戻る帰還船が魚雷に沈没させられて、それっきりだったといいます。 　だから父の命日はわかりません。並木さんは、母の命日を同時に父の命日として弔うことにしたのでした。 　そうしてようやく戦争が終わります。彼女に運が向いたのは、戦後最初に制作された映画のヒロインに抜擢され、主題歌を歌ったことでした。 　映画のタイトルは「そよかぜ」。そして主題歌は、「リンゴの唄」。 　「そよかぜ」は、劇場の手伝いをしている人気者の少女が、スターへの階段を歩み始めるという明るく素朴な映画です。戦争でうちひしがれている日本人に、少しでも未来に希望を持ってもらえたらという願いから作られた作品だったのです。 　配給のフィルムは乏しく、封切りの時にはわずか二本のフィルムしかプリントできませんでした。このわずかなプリントを分け合うようにして、椅子も焼けてなくなってしまったような映画館でみんなこの映画を見たのです。 　でも明るく素朴な映画だったからといって、スタッフやキャストがただ明るい気持ちで映画を製作できたわけではありません。戦争が終わったばかりで、当時そんな気持ちになれる日本人などほとんどいなかったでしょう。 　実際には、呆然としてしまう精神を押し隠すように必死に明るい映画を作ろうとしていたのです。 　撮影中、佐々木康監督は並木さんに「もっと明るく演技を」「明るく」としょっちゅう繰り返していました。 　でも彼女も、そんな明るい気持ちにはとうていなれませんでした。母を空襲で亡くしたのは自分がよく見てあげられなかったせいだと何かにつけてそのことが思い出され、彼女は自分を責めていました。父も兄もその時期はまだ生死不明でした。そんな中で、なんとか明るく歌おうとしたリンゴの唄。 　そこには単純な明るさではない別の色が入り込んでしまうのは、当然のことです。 　明るくないのに、明るくなろう明るくなろうと思う。その歌手としての強い意志と、でもその裏側にひそんでいる自責の念、そして挫折感。 　でもそういう二面性が、「リンゴの唄」に透明な芯のようなものを与え、それがきっと多くの人々の心に届いたのではないでしょうか。 「青い山脈」、焼き栗の豊かな夜 　「焼け跡」と呼ばれたこの時代は、音楽の流行でもきわめて特異な時期でした。 　なぜか明るい唄ばかりが流行ったのです。 　「リンゴの唄」をはじめとして「銀座カンカン娘」「青い山脈」「トンコ節」「薔薇を召しませ」。今となっては古い楽曲ばかりで、覚えていらっしゃる方はかなりのご年配の方だけでしょう。僕ももちろんまだ生まれていません。 「銀座カンカン娘」は高峰秀子と笠置シヅ子が出演した四九年の映画の主題歌。「トンコ節」は同じ都市の久保幸江さんの流行歌です。 　そして「青い山脈」は作家石坂洋次郎のベストセラー青春小説。これも四九年に原節子と池部良主演で映画化されました。戦後間もない港町を舞台に、あらたな民主教育の中から育ってきた新しい若者たちの恋愛のありようを眩しすぎるばかりのタッチで描いています。 　女学校に通う女子生徒。進歩的な大学浪人の青年。生徒たちの味方をする新進の女性教師。そして彼女を慕う若い校医。 　映画では青い山脈を背景に、自転車をこぐ主人公たちの印象的なラストシーンでしたが、小説では最後は秋の静かな夜で物語は終わっていきます。 　土曜日の夜。 　夕方から雨がしとしとと降り続け、それがあたりの雑音を消してしまって、ひきこまれるように静かな晩。主人公たちは、校医の沼田の邸宅に集まります。手風琴を鳴らし、オルガンを弾き、それにあわせてダンスを踊る若者たち。 　沼田は緊張しながら、女性教師の雪子に声をかけます。「ちょっと御用談したいことがあるんですが、二階のぼくの書斎まで来てくださいますか？」 　「僕は貴女と結婚したいと思うんですけど、貴女の意志はどうでしょう？」 　額の脂汗をこすりながら、思いきって打ち明ける沼田。雪子は胸の骨がポクンと鳴るほどはげしく深い歓びを感じますが、しかしただその申し出を鵜のみにするのではなく、こう宣言するのです。 　「貴方、鉛筆を持っていますか。これから私の希望条件を申し上げますから、心覚えに書きとめて置いてください」 　そして二人は、「第一に、夫婦は互いに尊敬し合うこと」というような決め事を、紙に大きな字で書いて寝室の壁に貼っておこうと約束するのです。 　民主的な恋愛、民主的な結婚。対等な男女関係。そういう牧歌的な明るい未来が、石坂洋次郎のこの小説からはあふれるように開いていました。 　結婚後の人生の設計を雪子にリードされっぱなしの沼田は、うめくようにこう言います。 「ぼくは結婚前の男女の会話が、こんなに散文的なものだとは思いませんでしたよ」 「では、どんな風な——」 「星が美しいとか、花が咲いたとか、ホラ、よくあるじゃありませんか。やさしい、きれいな男女の会話がね」 &#8230; <a href="http://www.bokura.jp/2011/07/chapter2/">Continue reading <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div class="cnt"><img src="http://www.bokura.jp/wp-content/uploads/2011/07/img_chapter2.jpg" alt="疲労と絶望、そして青空" title="疲労と絶望、そして青空" width="431" height="559" class="alignnone size-full wp-image-35" unselectable="on" oncontextmenu="return false" galleryimg="no" /></div>
<h3>「明るい気持ちになんてなれない」</h3>
<p>　東京大空襲をからくも生き延びた並木路子さん。彼女は遠い親戚の家に身を寄せ、その日から行方不明の母を捜し続けます。行けども行けどもだだっぴろい焼け野原。<br />
　そして三日目、警察から母らしき遺体が見つかったと連絡があります。<br />
　増上寺にずらりと並べられたお棺。こんなにもたくさんの人が亡くなったのかーー。お棺の中の母は大きな傷もなく、生きていたころの姿のままで横たわっていました。<br />
　母は水中に飛び込んだ瞬間に心臓麻痺を起こして亡くなったと知らされました。母がただひとつ身につけていたのは、腹巻きの中に入れていた並木さんの給料袋三通。それを知らされたとき、涙がわぁっと出てきて止まらなくなります。<br />
　「やっぱりお母さんだなあ、私から渡したお金を大事に持っていてくれて。これを持っていなかったら、私はいつまでもお母さんがどうなったかわからず、お母さんもそのまま骨になっていたかもしれない。よかったなあ……」<br />
　でも運命は過酷です。次兄を失い、母を失い、そして南方に出ていた父までもが消息を絶ちました。<br />
　父の行方がわかったのは、戦後になってからです。パラオから日本に戻る帰還船が魚雷に沈没させられて、それっきりだったといいます。<br />
　だから父の命日はわかりません。並木さんは、母の命日を同時に父の命日として弔うことにしたのでした。</p>
<p>　そうしてようやく戦争が終わります。彼女に運が向いたのは、戦後最初に制作された映画のヒロインに抜擢され、主題歌を歌ったことでした。<br />
　映画のタイトルは「そよかぜ」。そして主題歌は、「リンゴの唄」。<br />
　「そよかぜ」は、劇場の手伝いをしている人気者の少女が、スターへの階段を歩み始めるという明るく素朴な映画です。戦争でうちひしがれている日本人に、少しでも未来に希望を持ってもらえたらという願いから作られた作品だったのです。<br />
　配給のフィルムは乏しく、封切りの時にはわずか二本のフィルムしかプリントできませんでした。このわずかなプリントを分け合うようにして、椅子も焼けてなくなってしまったような映画館でみんなこの映画を見たのです。<br />
　でも明るく素朴な映画だったからといって、スタッフやキャストがただ明るい気持ちで映画を製作できたわけではありません。戦争が終わったばかりで、当時そんな気持ちになれる日本人などほとんどいなかったでしょう。<br />
　実際には、呆然としてしまう精神を押し隠すように必死に明るい映画を作ろうとしていたのです。<br />
　撮影中、佐々木康監督は並木さんに「もっと明るく演技を」「明るく」としょっちゅう繰り返していました。<br />
　でも彼女も、そんな明るい気持ちにはとうていなれませんでした。母を空襲で亡くしたのは自分がよく見てあげられなかったせいだと何かにつけてそのことが思い出され、彼女は自分を責めていました。父も兄もその時期はまだ生死不明でした。そんな中で、なんとか明るく歌おうとしたリンゴの唄。<br />
　そこには単純な明るさではない別の色が入り込んでしまうのは、当然のことです。<br />
　明るくないのに、明るくなろう明るくなろうと思う。その歌手としての強い意志と、でもその裏側にひそんでいる自責の念、そして挫折感。<br />
　でもそういう二面性が、「リンゴの唄」に透明な芯のようなものを与え、それがきっと多くの人々の心に届いたのではないでしょうか。</p>
<h3>「青い山脈」、焼き栗の豊かな夜</h3>
<p>　「焼け跡」と呼ばれたこの時代は、音楽の流行でもきわめて特異な時期でした。<br />
　なぜか明るい唄ばかりが流行ったのです。<br />
　「リンゴの唄」をはじめとして「銀座カンカン娘」「青い山脈」「トンコ節」「薔薇を召しませ」。今となっては古い楽曲ばかりで、覚えていらっしゃる方はかなりのご年配の方だけでしょう。僕ももちろんまだ生まれていません。<br />
「銀座カンカン娘」は高峰秀子と笠置シヅ子が出演した四九年の映画の主題歌。「トンコ節」は同じ都市の久保幸江さんの流行歌です。<br />
　そして「青い山脈」は作家石坂洋次郎のベストセラー青春小説。これも四九年に原節子と池部良主演で映画化されました。戦後間もない港町を舞台に、あらたな民主教育の中から育ってきた新しい若者たちの恋愛のありようを眩しすぎるばかりのタッチで描いています。<br />
　女学校に通う女子生徒。進歩的な大学浪人の青年。生徒たちの味方をする新進の女性教師。そして彼女を慕う若い校医。<br />
　映画では青い山脈を背景に、自転車をこぐ主人公たちの印象的なラストシーンでしたが、小説では最後は秋の静かな夜で物語は終わっていきます。<br />
　土曜日の夜。<br />
　夕方から雨がしとしとと降り続け、それがあたりの雑音を消してしまって、ひきこまれるように静かな晩。主人公たちは、校医の沼田の邸宅に集まります。手風琴を鳴らし、オルガンを弾き、それにあわせてダンスを踊る若者たち。<br />
　沼田は緊張しながら、女性教師の雪子に声をかけます。「ちょっと御用談したいことがあるんですが、二階のぼくの書斎まで来てくださいますか？」<br />
　「僕は貴女と結婚したいと思うんですけど、貴女の意志はどうでしょう？」<br />
　額の脂汗をこすりながら、思いきって打ち明ける沼田。雪子は胸の骨がポクンと鳴るほどはげしく深い歓びを感じますが、しかしただその申し出を鵜のみにするのではなく、こう宣言するのです。<br />
　「貴方、鉛筆を持っていますか。これから私の希望条件を申し上げますから、心覚えに書きとめて置いてください」<br />
　そして二人は、「第一に、夫婦は互いに尊敬し合うこと」というような決め事を、紙に大きな字で書いて寝室の壁に貼っておこうと約束するのです。<br />
　民主的な恋愛、民主的な結婚。対等な男女関係。そういう牧歌的な明るい未来が、石坂洋次郎のこの小説からはあふれるように開いていました。<br />
　結婚後の人生の設計を雪子にリードされっぱなしの沼田は、うめくようにこう言います。<br />
「ぼくは結婚前の男女の会話が、こんなに散文的なものだとは思いませんでしたよ」<br />
「では、どんな風な——」<br />
「星が美しいとか、花が咲いたとか、ホラ、よくあるじゃありませんか。やさしい、きれいな男女の会話がね」<br />
「貴方、私に結婚の申込みをしたことを後悔してるんじゃございませんか？」<br />
「いや、そんなことがあるもんですか。ぼくは死んだって貴女を離しませんよ」<br />
「･･それは貴女が仰言るように、外国の恋愛小説などを読んでおりますと、豊かな、素晴らしい恋人同士の会話が出て来たりしますけど、私共の社会生活はまだそれほど成熟しておらず、ずっと幼稚な段階にあるのだと思いますわ。その地盤が出来ておらないのに、真似事のきれいな会話で飾り立てるのは、かえって惨めで、滑稽なことではないでしょうか」</p>
<p>　日本人はいまはまだ未成熟で幼稚だけれど、これから少しずついろんなことを学んで成長していくのだ。そういう青くさいほどの気負いが、この会話からは匂い立ってきています。<br />
　その未来の成熟を予感させるように、小説は次のような一節で完結するのです。</p>
<p>「大地には夜の雨がシトシトと降りそそぎ、窓の中には、焼グリの香ばしい匂いがプンと漂っていた」</p>
<p>　「トンコ節」と同じ西条八十が作詞し、「銀座カンカン娘」の服部良一が作曲した映画「青い山脈」のテーマ曲は、その青い気負いが存分に表現されています。「青い山脈　雪割桜　空のはて　今日もわれらの　夢を呼ぶ」</p>
<h3>「虚脱」という流行語</h3>
<p>　焼け跡の楽曲で語られた空気感はいずれも朗らかに明るく、メロディも脳天気なまでに心地よい。戦前から戦後まで、日本の流行歌の多くはどちらかといえば湿っぽい情念を歌い上げるものが多かったのですが、この時期だけはそういう音楽はあまり多くは流行らなかった。<br />
　音楽評論家の伊藤強さんは、こう言っていますー日本人が日本的な心情を忘れていた時代だった、と。<br />
　喪失感と絶望。その絶望の先に生まれてくる希望を、多くの人が恋い焦がれるように熱望していたのでしょう。</p>
<p>　日本の戦後史研究で知られるアメリカの歴史家ジョン・ダワーさんは、「虚脱」というのは戦後の新しい言葉だったと指摘しています。<br />
　戦争中、ずっと「死」に直面していた日本人。最後は本土決戦だと考え、いつその最悪の事態がやってくるのかと恐れ続けていました。<br />
　全員が玉砕するのだと覚悟していた日本人。美しい死の覚悟はできなくても、あきらめて死ぬしかないという心境にあった人もいたでしょう。<br />
　無数の温度差はあっても、そこには「最後には僕らは死ぬんだ」という一様な色で覆われていたのです。<br />
　その緊張の糸が、天皇陛下の玉音放送によってプツリと切れたのです。<br />
　その時、日本人の心の中で何が起きたのでしょうか。<br />
　玉音放送を聞いて、信じられない事態にショックを受けた私たち。<br />
　その直後、「もう死ななくてもいいんだ」という大きな安堵。<br />
　でもその後に、疲労と絶望。<br />
　こうした心の崩壊は非常に深い傷で、しかも多くの日本人が同じような体験をしたのです。だからそれまでは医学の専門用語だった「虚脱」という言葉が、多くの人に使われるようになったといいます。もともとは入院患者の肉体的、感動的な衰弱を示す臨床医学の専門用語が、民衆全体の沈滞感や喪失感を意味することばとして広く使われるようになったのです。<br />
　「リンゴの唄」で歌われた青空。その透き通るようなきれいな色の裏側には、疲労と絶望、安堵と落胆がないまぜになった虚脱があったのです。</p>
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		<title>Chapter3</title>
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		<pubDate>Sun, 31 Jul 2011 01:28:07 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[「私たちって行くところがないみたいね」 　多くの人が虚脱の中に陥っていき、そこから決して逃れられない人もいました。 　一九四九年初冬。 　作家林芙美子は「浮雲」という小説を月刊誌「風雪」に連載しはじめます。 　物語の最初の舞台は、太平洋戦争中のベトナム。当時は仏印（フランス領インドシナ）と呼んでいました。フランスがナチスドイツに占領されたのを契機にこの地域には日本軍が進駐し、実質的な日本の支配地域となっていました。 　ベトナム中部の山中に、ダラットという美しい街があります。標高約一五〇〇メートルの高原にあって年中すずしく、街の中央には大きな湖が広がり、フランス風の町並みがいまも残っていることで知られています。夏の軽井沢のような場所と言えばわかりやすいでしょうか。 　主人公の幸田ゆき子は農林省のタイピストとして、ダラットに赴任します。 　開戦から二年が経って、すでに戦局は劣勢へと転回していました。窮乏し、暗い雲が立ちこめはじめていた祖国。しかしゆき子が向かったダラットはまるで幻のようでした。 　「高原のダラットの街は、ゆき子の眼には空に写る蜃気楼のようにも見えた。ランヴァン山を背景にして、湖を前にしたダラットの段丘の街はゆき子の不安や空想を根こそぎくつがえしてくれた」 　この夢のような街で、ゆき子は夢のような時間を過ごします。王宮のような農林省のオフィス。真っ白なリゾート風のドレス。芝生にたわむれる白い犬。コアントロー、マンゴスチン、ドリアン。エキゾチックな名前の酒や果物。 　そしてその蜃気楼の街で出会うのが、農林省技師の富岡。ちょっと虚無的なイケメンで、でもどうしようもない女たらし。でもこのダメ男にゆき子はどんどん惹かれていってしまって、身体を許すようになります。まるでヨーロッパ映画のヒロインのように抱かれる彼女。 　しかしダラットでの夢のような時間は、終戦によってあっけなく消滅してしまいます。 　幻のような夏から、現実が迫る過酷な冬へ。 　引き揚げ船で舞鶴港まで戻ってきたゆき子。寒い冬の季節なのに、彼女は薄いジャケットしか羽織っていません。身をすくめて寒さに耐えます。 　東京の自宅に戻っていた富岡に会いに行くゆき子。でも富岡の態度ははっきりしません。ダラットではあれほど輝いていた彼も、冬空の焼け跡では貧相な中年男にしか見えません。 「僕たちは、あの自然のなかで夢を見ていたのさ」 　でもゆき子は、すがるようにダラットの思い出を語ります。 「思い出すわ、いろんなこと。チャンボウの林を視察に行くとき、4人でアンナンのホテルに泊まってランプでご飯を食べて、みんなお酒を飲んで酔って眠ったでしょう。あのころはみんなよくお酒を飲んだわね。あの晩あなたは一番はずれのお部屋だったわ。私おぼえておいて夜中に裸足で初めて行ったわね。鍵が欠けてなかったわ。あのときがあなたと私の……」 　そしてゆき子は貧乏くさい連れ込み宿のちゃぶ台の前で、富岡にしなだれかかるのです。テーブルには日本酒とラーメンのどんぶり。 「私はどうしたらいいのか　自分でもわからなくなってるのよ。どうかしちゃって！どうにでもしてしまって……」 「いつまでも昔のことを考えたってしかたないだろう。 「昔のことがあなたと私には重大なんだわ。それを無くしたら、あなたも私もどこにもないじゃないですか」 　ある日、木造の千駄ヶ谷駅で待ち合わせる二人。目の前をデモ隊が革命歌「インターナショナル」を歌いながら通り過ぎていきます。 　神宮外苑を散歩しながら、二人はとりとめもなく会話します。 「ねえ、どこまで歩くのよ」 「渋谷へでも出てみようか」 「私たちって行くところがないみたいね」 「そうだなあ。どこか……遠くへ行こうか」 魂のない人間、彷徨 　でも結局、二人が向かったのは群馬県の伊香保温泉。温泉地に行ったからといって、新たな世界が拓けているはずもありません。それでもまだゆき子は、ダラットの話を続けようとします。富岡は疲れたような表情で彼女にこう返します。 「昔話も時が経つと色があせてくるよ。二人で会って昔をなつかしがってみたところで、君と僕の間が昔どおりの激しさに戻るもんでもないし……。そのくせ僕は女房にだって昔どおりの愛情は持っちゃいないんだよ。まったくどうにもならない魂のない人間ができちゃったもんさ」 　「どうにもならない魂のない人間」という言葉。敗戦の虚脱が、この言葉に一点に集約されているようです。 　ゆき子と富岡の二人は、戦中は外地で楽しい生活を送り、冷たく厳しい冬の日本に戻ってきました。戦中に苦難の時代を過ごし、戦後の青空の下で「リンゴの唄」に望みをつないでいた多くの日本人とは、逆転した境遇でした。でもだからこそ、二人には敗戦の重みがさらに鋭く突き刺さってきたといえるのかもしれません。 　物語は終盤、屋久島へと舞台を移します。 　東京にいるのが嫌になり、できるだけ遠いところを……と屋久島の営林署勤務を希望した富岡。新興宗教の教祖に囲われていたゆき子は、教団の金を持ち逃げして富岡と行動をともにします。しかし体調を崩していた彼女は病状を悪化させ、雨の降りしきる屋久島の小さな家で死の床へと就いてしまうのです。 　「浮雲」を一年半がかりで書き終えた林芙美子は、連載終了のわずか二か月後に心臓麻痺で亡くなります。まだ四十七歳でした。死の前年、「浮雲」の取材のために林芙美子は屋久島を訪れ、こうつづっています。 「沁々と靜かな夜である。バスが停るたび、地虫が鳴きたてていた。むれたような、亜熱帯の草いきれがした。月が淡く樹間に透けて見えた。どうすればいいのか判らないような、荒漠とした思いが、胸の中に吹き込む」 希望と虚脱、相反する二つの感覚 　この荒漠とした思い。虚脱して途方に暮れていた多くの日本人の思いが、そこに重なって見えてきます。希望を持ちたいけれど、どこにどう希望を持てばいいのかもまだわからない。そういう時代精神。 「リンゴの唄」に人々が感じた希望と、「浮雲」の富岡とゆき子が抱え続けた荒漠とした虚脱。 &#8230; <a href="http://www.bokura.jp/2011/07/chapter3/">Continue reading <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div class="cnt"><img src="http://www.bokura.jp/wp-content/uploads/2011/07/img_chapter3.jpg" alt="ダラットのはかない夢" title="ダラットのはかない夢" width="431" height="561" class="alignnone size-full wp-image-39" unselectable="on" oncontextmenu="return false" galleryimg="no" /></div>
<h3>「私たちって行くところがないみたいね」</h3>
<p>　多くの人が虚脱の中に陥っていき、そこから決して逃れられない人もいました。<br />
　一九四九年初冬。<br />
　作家林芙美子は「浮雲」という小説を月刊誌「風雪」に連載しはじめます。<br />
　物語の最初の舞台は、太平洋戦争中のベトナム。当時は仏印（フランス領インドシナ）と呼んでいました。フランスがナチスドイツに占領されたのを契機にこの地域には日本軍が進駐し、実質的な日本の支配地域となっていました。<br />
　ベトナム中部の山中に、ダラットという美しい街があります。標高約一五〇〇メートルの高原にあって年中すずしく、街の中央には大きな湖が広がり、フランス風の町並みがいまも残っていることで知られています。夏の軽井沢のような場所と言えばわかりやすいでしょうか。<br />
　主人公の幸田ゆき子は農林省のタイピストとして、ダラットに赴任します。<br />
　開戦から二年が経って、すでに戦局は劣勢へと転回していました。窮乏し、暗い雲が立ちこめはじめていた祖国。しかしゆき子が向かったダラットはまるで幻のようでした。</p>
<p>　「高原のダラットの街は、ゆき子の眼には空に写る蜃気楼のようにも見えた。ランヴァン山を背景にして、湖を前にしたダラットの段丘の街はゆき子の不安や空想を根こそぎくつがえしてくれた」</p>
<p>　この夢のような街で、ゆき子は夢のような時間を過ごします。王宮のような農林省のオフィス。真っ白なリゾート風のドレス。芝生にたわむれる白い犬。コアントロー、マンゴスチン、ドリアン。エキゾチックな名前の酒や果物。<br />
　そしてその蜃気楼の街で出会うのが、農林省技師の富岡。ちょっと虚無的なイケメンで、でもどうしようもない女たらし。でもこのダメ男にゆき子はどんどん惹かれていってしまって、身体を許すようになります。まるでヨーロッパ映画のヒロインのように抱かれる彼女。<br />
　しかしダラットでの夢のような時間は、終戦によってあっけなく消滅してしまいます。<br />
　幻のような夏から、現実が迫る過酷な冬へ。<br />
　引き揚げ船で舞鶴港まで戻ってきたゆき子。寒い冬の季節なのに、彼女は薄いジャケットしか羽織っていません。身をすくめて寒さに耐えます。<br />
　東京の自宅に戻っていた富岡に会いに行くゆき子。でも富岡の態度ははっきりしません。ダラットではあれほど輝いていた彼も、冬空の焼け跡では貧相な中年男にしか見えません。</p>
<p>「僕たちは、あの自然のなかで夢を見ていたのさ」</p>
<p>　でもゆき子は、すがるようにダラットの思い出を語ります。<br />
「思い出すわ、いろんなこと。チャンボウの林を視察に行くとき、4人でアンナンのホテルに泊まってランプでご飯を食べて、みんなお酒を飲んで酔って眠ったでしょう。あのころはみんなよくお酒を飲んだわね。あの晩あなたは一番はずれのお部屋だったわ。私おぼえておいて夜中に裸足で初めて行ったわね。鍵が欠けてなかったわ。あのときがあなたと私の……」<br />
　そしてゆき子は貧乏くさい連れ込み宿のちゃぶ台の前で、富岡にしなだれかかるのです。テーブルには日本酒とラーメンのどんぶり。<br />
「私はどうしたらいいのか　自分でもわからなくなってるのよ。どうかしちゃって！どうにでもしてしまって……」<br />
「いつまでも昔のことを考えたってしかたないだろう。<br />
「昔のことがあなたと私には重大なんだわ。それを無くしたら、あなたも私もどこにもないじゃないですか」</p>
<p>　ある日、木造の千駄ヶ谷駅で待ち合わせる二人。目の前をデモ隊が革命歌「インターナショナル」を歌いながら通り過ぎていきます。<br />
　神宮外苑を散歩しながら、二人はとりとめもなく会話します。<br />
「ねえ、どこまで歩くのよ」<br />
「渋谷へでも出てみようか」<br />
「私たちって行くところがないみたいね」<br />
「そうだなあ。どこか……遠くへ行こうか」</p>
<h3>魂のない人間、彷徨</h3>
<p>　でも結局、二人が向かったのは群馬県の伊香保温泉。温泉地に行ったからといって、新たな世界が拓けているはずもありません。それでもまだゆき子は、ダラットの話を続けようとします。富岡は疲れたような表情で彼女にこう返します。</p>
<p>「昔話も時が経つと色があせてくるよ。二人で会って昔をなつかしがってみたところで、君と僕の間が昔どおりの激しさに戻るもんでもないし……。そのくせ僕は女房にだって昔どおりの愛情は持っちゃいないんだよ。まったくどうにもならない魂のない人間ができちゃったもんさ」</p>
<p>　「どうにもならない魂のない人間」という言葉。敗戦の虚脱が、この言葉に一点に集約されているようです。<br />
　ゆき子と富岡の二人は、戦中は外地で楽しい生活を送り、冷たく厳しい冬の日本に戻ってきました。戦中に苦難の時代を過ごし、戦後の青空の下で「リンゴの唄」に望みをつないでいた多くの日本人とは、逆転した境遇でした。でもだからこそ、二人には敗戦の重みがさらに鋭く突き刺さってきたといえるのかもしれません。</p>
<p>　物語は終盤、屋久島へと舞台を移します。<br />
　東京にいるのが嫌になり、できるだけ遠いところを……と屋久島の営林署勤務を希望した富岡。新興宗教の教祖に囲われていたゆき子は、教団の金を持ち逃げして富岡と行動をともにします。しかし体調を崩していた彼女は病状を悪化させ、雨の降りしきる屋久島の小さな家で死の床へと就いてしまうのです。<br />
　「浮雲」を一年半がかりで書き終えた林芙美子は、連載終了のわずか二か月後に心臓麻痺で亡くなります。まだ四十七歳でした。死の前年、「浮雲」の取材のために林芙美子は屋久島を訪れ、こうつづっています。</p>
<p>「沁々と靜かな夜である。バスが停るたび、地虫が鳴きたてていた。むれたような、亜熱帯の草いきれがした。月が淡く樹間に透けて見えた。どうすればいいのか判らないような、荒漠とした思いが、胸の中に吹き込む」</p>
<h3>希望と虚脱、相反する二つの感覚</h3>
<p>　この荒漠とした思い。虚脱して途方に暮れていた多くの日本人の思いが、そこに重なって見えてきます。希望を持ちたいけれど、どこにどう希望を持てばいいのかもまだわからない。そういう時代精神。<br />
「リンゴの唄」に人々が感じた希望と、「浮雲」の富岡とゆき子が抱え続けた荒漠とした虚脱。<br />
　その二つの感覚は背反したように見えるけれども、でも敗戦という大きなできごとの表側と裏側で同時に当時の日本人を覆っていたのです。<br />
　そして、三島由紀夫が感じた「かがやかしい腐敗と新生の季節」——。</p>
<p>　大日本帝国という神話が消滅し、新しい社会がやってくる。そこではまったく新しい時代精神が、新しい人々によって作られていく。<br />
　そういう虚脱の中から生まれる期待を、人々は共有していました。</p>
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		<title>Chapter4</title>
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		<pubDate>Sun, 31 Jul 2011 01:27:55 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[坂口安吾の突きつけた刃 　一九四六年春。 　作家坂口安吾は「堕落論」を書きます。 　当時の知識人たちに強い衝撃を与えたこの短い文章は、二〇一一年のいま読むと、僕たちの心にひそやかに突き刺さってきます。 　堕落論は、僕たち日本人の建前を思い切りぶち壊してしまう、明快な論理に満ちあふれています。一刀両断です。 　安吾はこう書きます。 　赤穂浪士四十七士の助命嘆願を排して処刑を断行したのは、彼らが生きながらえた時に名を汚すような行為をする者が現れないように、という配慮があったから。 　清楚な姪が二十一歳で自殺したとき、安吾は「美しいうちに死んでくれて良かった」とも感じた。清楚だけれど壊れそうな危うさがあり、そのうち地獄に真っ逆さまに落ちるんじゃないかと思っていたから。 　仇討ちは草の根を分け乞食になっても追いまくれと言われたが、それはもともと日本人が最も憎悪の心の少なく、あっけらかんと昨日の敵を今日の友にしてしまう国民性だったから。 　武士道が作られたのは、こういう規定でも作らないかぎり日本人を戦闘に駆り立てられなかったから。 　つまりは日本人なんて、そんなものだと安吾は言うのです。 　だから天皇制だって、代々の権力者たちが天皇陛下を本当に絶対だと思ってたわけではない。天皇陛下をまつりあげなければみんながついてこないと、彼らは政治的嗅覚で知っていたからなんだと。 　そして安吾はこう突き放すのです。「孔子家でも釈迦家でもレーニン家でも構わなかった。ただ代り得なかっただけである」と。変わりやすい女心をつなぎ止めておくのと同じようなものだった、と言うのです。 　戦前の美しい戦いの美学。空襲。神風特攻隊。玉砕。 　そうした破壊と破壊への衝動を、安吾は「私は偉大な破壊を愛していた」「あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった」と書きます。 　つまるところ、僕らはその美学を求めていたのです。その美学に陶酔している間は、目の前の不安や日常の些末な困難から、しばしの間は逃れることができる。そしてもっと大事なことに、自分で責任を負うことの重みを回避し、責任を「偉大な破壊」を実現する天皇制や軍部という唯一無比の存在へと仮託することができる。 　そうした唯一無比の存在は、つまるところ僕たち日本人にとっての「神」なのかもしれません。その存在とともにいる間は、自分は責任を負わなくていい。そういう便利な存在としての「神」。そしてその神は、美しい戦いの美学という「神話」を紡ぎ出してくれることができた。 　神と神話。そういう後ろ盾が、僕らの戦争を担っていたのです。 　僕らは神と同一になることで、ともに「偉大な破壊」という美学を存分に実現して美しくカッコよく生きることができるのです。 　だからこそ当時の日本人は、開戦を恋い焦がれ、その美学に心の底から陶酔することを望んだということなのです。 　みながともに助け合い、愛情を伝え、言葉をかけあいました。偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。 　そういうふうに美しく生きたい、と僕らは望んだのです。 　結局のところ僕たち日本人は、安吾が「偉大な破壊」と呼ぶような崇高で峻烈な「神話」を必要としているということなのかもしれません。そうでなければこの脳天気な国民は、ばらばらに離れてしまう。そこに求心力を維持していくための装置として、偉大なる神話が作り上げられてきたのでしょう。 　だから僕たちは実は、心の底からそうした神話を信じているのではない。ただそう信じ込もうという皆の努力が、神話を成り立たせているだけということなのです。 偉大な美しい破壊は終わった 　でもそれらの偉大な破壊は、敗戦によってなくなってしまったと安吾は言います。 　偉大な破壊は消え、僕たちは堕落するのだと。 　そして堕落によって、本当の人間の歴史が始まるのだと。見せかけの神話を捨て去った後に、本当の僕らの社会が生まれるのだと。 「日本は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか」 　安吾の叫びは、この一文に凝縮されています。 　でも安吾は、文章の最後で「だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう」とも予言しています。 　人間の心は鋼鉄のように苦難に立ち向かっていくことはできない。可憐で脆弱で、そして愚かなものだから、堕ちぬくためには弱すぎるのだと。 　だから結局、偉大な破壊を失ってしまった日本人もやがてはまた武士道を編み出し、天皇を担ぎ出し、処女を刺殺せざるを得ないだろう、そう安吾は書くのです。 　でも他人の処女ではなく自分の処女を刺殺し、自分自身の天皇、自分自身の武士道をあみだすためには、やはり僕たちは堕ちきらなければならない。 　「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」 　安吾のこの言葉は、長い戦後社会を終えた二〇一〇年代の僕たちの精神に、深く深く突き刺さってきます。 　僕たちは「堕ちきった」のでしょうか？　堕ちて堕ちて、堕ちぬくことができたのでしょうか？]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div class="cnt"><img src="http://www.bokura.jp/wp-content/uploads/2011/07/img_chapter4.jpg" alt="僕たちは堕落するのだ" title="僕たちは堕落するのだ" width="560" height="431" class="alignnone size-full wp-image-48" unselectable="on" oncontextmenu="return false" galleryimg="no" /></div>
<h3>坂口安吾の突きつけた刃</h3>
<p>　一九四六年春。<br />
　作家坂口安吾は「堕落論」を書きます。<br />
　当時の知識人たちに強い衝撃を与えたこの短い文章は、二〇一一年のいま読むと、僕たちの心にひそやかに突き刺さってきます。<br />
　堕落論は、僕たち日本人の建前を思い切りぶち壊してしまう、明快な論理に満ちあふれています。一刀両断です。<br />
　安吾はこう書きます。</p>
<p>　赤穂浪士四十七士の助命嘆願を排して処刑を断行したのは、彼らが生きながらえた時に名を汚すような行為をする者が現れないように、という配慮があったから。<br />
　清楚な姪が二十一歳で自殺したとき、安吾は「美しいうちに死んでくれて良かった」とも感じた。清楚だけれど壊れそうな危うさがあり、そのうち地獄に真っ逆さまに落ちるんじゃないかと思っていたから。<br />
　仇討ちは草の根を分け乞食になっても追いまくれと言われたが、それはもともと日本人が最も憎悪の心の少なく、あっけらかんと昨日の敵を今日の友にしてしまう国民性だったから。<br />
　武士道が作られたのは、こういう規定でも作らないかぎり日本人を戦闘に駆り立てられなかったから。<br />
　つまりは日本人なんて、そんなものだと安吾は言うのです。<br />
　だから天皇制だって、代々の権力者たちが天皇陛下を本当に絶対だと思ってたわけではない。天皇陛下をまつりあげなければみんながついてこないと、彼らは政治的嗅覚で知っていたからなんだと。</p>
<p>　そして安吾はこう突き放すのです。「孔子家でも釈迦家でもレーニン家でも構わなかった。ただ代り得なかっただけである」と。変わりやすい女心をつなぎ止めておくのと同じようなものだった、と言うのです。<br />
　戦前の美しい戦いの美学。空襲。神風特攻隊。玉砕。<br />
　そうした破壊と破壊への衝動を、安吾は「私は偉大な破壊を愛していた」「あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった」と書きます。</p>
<p>　つまるところ、僕らはその美学を求めていたのです。その美学に陶酔している間は、目の前の不安や日常の些末な困難から、しばしの間は逃れることができる。そしてもっと大事なことに、自分で責任を負うことの重みを回避し、責任を「偉大な破壊」を実現する天皇制や軍部という唯一無比の存在へと仮託することができる。</p>
<p>　そうした唯一無比の存在は、つまるところ僕たち日本人にとっての「神」なのかもしれません。その存在とともにいる間は、自分は責任を負わなくていい。そういう便利な存在としての「神」。そしてその神は、美しい戦いの美学という「神話」を紡ぎ出してくれることができた。</p>
<p>　神と神話。そういう後ろ盾が、僕らの戦争を担っていたのです。</p>
<p>　僕らは神と同一になることで、ともに「偉大な破壊」という美学を存分に実現して美しくカッコよく生きることができるのです。<br />
　だからこそ当時の日本人は、開戦を恋い焦がれ、その美学に心の底から陶酔することを望んだということなのです。<br />
　みながともに助け合い、愛情を伝え、言葉をかけあいました。偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。<br />
　そういうふうに美しく生きたい、と僕らは望んだのです。</p>
<p>　結局のところ僕たち日本人は、安吾が「偉大な破壊」と呼ぶような崇高で峻烈な「神話」を必要としているということなのかもしれません。そうでなければこの脳天気な国民は、ばらばらに離れてしまう。そこに求心力を維持していくための装置として、偉大なる神話が作り上げられてきたのでしょう。<br />
　だから僕たちは実は、心の底からそうした神話を信じているのではない。ただそう信じ込もうという皆の努力が、神話を成り立たせているだけということなのです。</p>
<h3>偉大な美しい破壊は終わった</h3>
<p>　でもそれらの偉大な破壊は、敗戦によってなくなってしまったと安吾は言います。<br />
　偉大な破壊は消え、僕たちは堕落するのだと。<br />
　そして堕落によって、本当の人間の歴史が始まるのだと。見せかけの神話を捨て去った後に、本当の僕らの社会が生まれるのだと。<br />
「日本は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか」<br />
　安吾の叫びは、この一文に凝縮されています。</p>
<p>　でも安吾は、文章の最後で「だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう」とも予言しています。<br />
　人間の心は鋼鉄のように苦難に立ち向かっていくことはできない。可憐で脆弱で、そして愚かなものだから、堕ちぬくためには弱すぎるのだと。<br />
　だから結局、偉大な破壊を失ってしまった日本人もやがてはまた武士道を編み出し、天皇を担ぎ出し、処女を刺殺せざるを得ないだろう、そう安吾は書くのです。<br />
　でも他人の処女ではなく自分の処女を刺殺し、自分自身の天皇、自分自身の武士道をあみだすためには、やはり僕たちは堕ちきらなければならない。</p>
<p>　「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」</p>
<p>　安吾のこの言葉は、長い戦後社会を終えた二〇一〇年代の僕たちの精神に、深く深く突き刺さってきます。<br />
　僕たちは「堕ちきった」のでしょうか？　堕ちて堕ちて、堕ちぬくことができたのでしょうか？</p>
]]></content:encoded>
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		<title>Chapter5</title>
		<link>http://www.bokura.jp/2011/07/chapter5/</link>
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		<pubDate>Sun, 31 Jul 2011 01:26:34 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[巨大な壁がそこにあるということ 　終戦の夏。 　その光景に三島由紀夫は、「我々のかつて経験したことのない世界の夏野になり森になり雲になる」ことを望みました。 　彼は戦後十四年が経った一九五九年、「鏡子の家」という小説を書きます。 　この小説で三島は、戦後社会の生ぬるさへの嫌悪感を思い切りぶつけています。 　登場人物は、四人の若者です。学生ボクサーの峻吉、無名俳優の収、貿易会社社員の清一郎、日本画家の夏雄。それに加えて、彼らが集まるサロンの女主人鏡子。舞台は、朝鮮戦争が終わって間もない時代の東京です。 　四人は、敗戦によって絶対的な道徳律が失われた後、時代だけが進んでいく中で、自分がどこに進んでいけば良いのかわからなくなった若い日本人たちです。 　ある時鏡子のサロンに集まった四人は、酒を飲みながら「一体われわれの共通点って何なんだろう？」という話題で盛り上がります。 　「一人も幸福になりたがってないことでしょうよ」と遠くから言葉を投げる鏡子。戦後の時代を生きる彼らは、みな虚無的な雰囲気を漂わせている。それが鏡子のこの言葉に表れたのです。 　しかし清一郎は「幸福を求めない、なんて、古いセンチメンタルな思想だよ」と一蹴します。幸福を求めてるかどうか、なんて問題じゃない。わざわざ幸福を避けるなんていうヒロイズムは、脆弱で情けない古い貴族主義だ、というのです。 　この言葉に気圧されて、鏡子は黙ってしまいます。 　しかし四人とも、自分たちの共通点については語らないまでも以前から強く感じていました。 　それは何か。 　それは「壁」の存在です。 　自分たちが、壁の前に立っているということ。巨大な壁がそこにあり、その壁に鼻を突きつけるようにして四人が立っているということ。 　それが時代の壁なのか、社会の壁なのかはわかりません。ひとつだけわかっていたのは、彼らが子供だった戦後の焼け跡の時代には、そんな壁はすっかり壊されていたはずだったということ。 　三島は美しく力強い言葉でつづります。 「彼らの少年期にはこんな壁はすっかり瓦解して、明るい外光のうちに、どこまでも瓦礫がつづいていたのである。日は瓦礫の地平線から昇り、そこへ沈んだ。ガラス瓶のかけらをかがやかせる日毎の日の出は、おちちらばった無数の断片に美を与えた。この世界が瓦礫と断片から成立っていると信じられたあの無限に快活な、無限に自由な少年期は消えてしまった」 　そして四人は、その壁に対して挑戦しようと考えています。それぞれが、それぞれの方法で。 　「俺はその壁をぶち割ってやるんだ」とボクサーの峻吉は拳を握って。 　「僕はその壁を鏡に変えてしまうだろう」と俳優の収は怠惰な気持ちで。 　「僕はとにかくその壁に描くんだ。壁が風景や花々の壁画に変わってしまえば」と画家の夏雄は熱烈に。 　「俺はその壁になるんだ。俺がその壁自体に化けてしまうことだ」と会社員の清一郎。 もたれあうのではなく、それぞれの方法で 　そして清一郎は、みんなに「これから先何年か、逢うたびにどんなことでも包み隠さず話し合おう」と呼びかけるのです。しかしお互いに助け合ってはいけない、と宣言するのです。 　なぜ助け合ってはならないのか。 　なぜなら壁と戦うためには、自分たちのそれぞれの方法を固く守っていかないといけないから。もし助け合ったら、それはひとりひとりの宿命に対する侮辱になってしまうから。 　それぞれの宿命を受け入れ、それぞれの戦い方でそれぞれが戦っていけば良い。ただときどきは逢って、包み隠さず話し合おうよ、と清一郎は熱情的に話します。 　「これはたぶん歴史上だれも作らなかった同盟で、歴史上ただひとつの恒久不変の同盟だ」 　しかしこの四人の戦いは、最終的に敗れ去って終わります。壁と戦ったまつろわぬ若者たちは破滅するのです。 　ボクサーの峻吉は、日本フェザー級チャンピオンにまで上り詰めましたが、その後チンピラに襲われて拳をつぶされ、身を持ち崩してしまいます。 　俳優の収は、醜い高利貸しの女にカネで買われ、自分の家庭をさんざん苦しめたこの女と情死してしまいます。 　商社マンの誠一郎は欺瞞的な政略結婚をし、挙げ句に赴任先のニューヨークで白人男に妻を寝取られ、世間体だけを心配する日々を送ります。 　そして画家の夏雄は、作品が新聞社の賞を受賞して画壇で高い評価を受けるまでになりながら、ある日突然虚無に陥るのです。 　富士の樹海。 　山麓に果てしなく広がるこの森を描こうと考えた夏雄は、梅雨が明けたばかりのある夏の日に車を走らせます。 　河口湖畔のホテル。高原のさわやかな朝の風。紅葉台の展望台を目指して赤土の斜面を登ります。その時目のまえで大きな羽ばたきが起き、一羽の山鳥が灌木の中から飛び立っていきます。 　彼のほおをこするように高く上がっていった鳥の影に、夏雄はあえぎます。 「何かが僕のなかから飛び去ってしまったのじゃないか」 「飛び去ったのは、僕の魂じゃなかろうか」 &#8230; <a href="http://www.bokura.jp/2011/07/chapter5/">Continue reading <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div class="cnt"><img src="http://www.bokura.jp/wp-content/uploads/2011/07/img_chapter5.jpg" alt="敗れ去った若者たち" title="敗れ去った若者たち" width="431" height="560" class="alignnone size-full wp-image-51" unselectable="on" oncontextmenu="return false" galleryimg="no" /></div>
<h3>巨大な壁がそこにあるということ</h3>
<p>　終戦の夏。<br />
　その光景に三島由紀夫は、「我々のかつて経験したことのない世界の夏野になり森になり雲になる」ことを望みました。<br />
　彼は戦後十四年が経った一九五九年、「鏡子の家」という小説を書きます。<br />
　この小説で三島は、戦後社会の生ぬるさへの嫌悪感を思い切りぶつけています。<br />
　登場人物は、四人の若者です。学生ボクサーの峻吉、無名俳優の収、貿易会社社員の清一郎、日本画家の夏雄。それに加えて、彼らが集まるサロンの女主人鏡子。舞台は、朝鮮戦争が終わって間もない時代の東京です。<br />
　四人は、敗戦によって絶対的な道徳律が失われた後、時代だけが進んでいく中で、自分がどこに進んでいけば良いのかわからなくなった若い日本人たちです。</p>
<p>　ある時鏡子のサロンに集まった四人は、酒を飲みながら「一体われわれの共通点って何なんだろう？」という話題で盛り上がります。<br />
　「一人も幸福になりたがってないことでしょうよ」と遠くから言葉を投げる鏡子。戦後の時代を生きる彼らは、みな虚無的な雰囲気を漂わせている。それが鏡子のこの言葉に表れたのです。<br />
　しかし清一郎は「幸福を求めない、なんて、古いセンチメンタルな思想だよ」と一蹴します。幸福を求めてるかどうか、なんて問題じゃない。わざわざ幸福を避けるなんていうヒロイズムは、脆弱で情けない古い貴族主義だ、というのです。<br />
　この言葉に気圧されて、鏡子は黙ってしまいます。<br />
　しかし四人とも、自分たちの共通点については語らないまでも以前から強く感じていました。<br />
　それは何か。<br />
　それは「壁」の存在です。<br />
　自分たちが、壁の前に立っているということ。巨大な壁がそこにあり、その壁に鼻を突きつけるようにして四人が立っているということ。<br />
　それが時代の壁なのか、社会の壁なのかはわかりません。ひとつだけわかっていたのは、彼らが子供だった戦後の焼け跡の時代には、そんな壁はすっかり壊されていたはずだったということ。<br />
　三島は美しく力強い言葉でつづります。</p>
<p>「彼らの少年期にはこんな壁はすっかり瓦解して、明るい外光のうちに、どこまでも瓦礫がつづいていたのである。日は瓦礫の地平線から昇り、そこへ沈んだ。ガラス瓶のかけらをかがやかせる日毎の日の出は、おちちらばった無数の断片に美を与えた。この世界が瓦礫と断片から成立っていると信じられたあの無限に快活な、無限に自由な少年期は消えてしまった」</p>
<p>　そして四人は、その壁に対して挑戦しようと考えています。それぞれが、それぞれの方法で。</p>
<p>　「俺はその壁をぶち割ってやるんだ」とボクサーの峻吉は拳を握って。<br />
　「僕はその壁を鏡に変えてしまうだろう」と俳優の収は怠惰な気持ちで。<br />
　「僕はとにかくその壁に描くんだ。壁が風景や花々の壁画に変わってしまえば」と画家の夏雄は熱烈に。<br />
　「俺はその壁になるんだ。俺がその壁自体に化けてしまうことだ」と会社員の清一郎。</p>
<h3>もたれあうのではなく、それぞれの方法で</h3>
<p>　そして清一郎は、みんなに「これから先何年か、逢うたびにどんなことでも包み隠さず話し合おう」と呼びかけるのです。しかしお互いに助け合ってはいけない、と宣言するのです。<br />
　なぜ助け合ってはならないのか。<br />
　なぜなら壁と戦うためには、自分たちのそれぞれの方法を固く守っていかないといけないから。もし助け合ったら、それはひとりひとりの宿命に対する侮辱になってしまうから。<br />
　それぞれの宿命を受け入れ、それぞれの戦い方でそれぞれが戦っていけば良い。ただときどきは逢って、包み隠さず話し合おうよ、と清一郎は熱情的に話します。<br />
　「これはたぶん歴史上だれも作らなかった同盟で、歴史上ただひとつの恒久不変の同盟だ」</p>
<p>　しかしこの四人の戦いは、最終的に敗れ去って終わります。壁と戦ったまつろわぬ若者たちは破滅するのです。</p>
<p>　ボクサーの峻吉は、日本フェザー級チャンピオンにまで上り詰めましたが、その後チンピラに襲われて拳をつぶされ、身を持ち崩してしまいます。<br />
　俳優の収は、醜い高利貸しの女にカネで買われ、自分の家庭をさんざん苦しめたこの女と情死してしまいます。<br />
　商社マンの誠一郎は欺瞞的な政略結婚をし、挙げ句に赴任先のニューヨークで白人男に妻を寝取られ、世間体だけを心配する日々を送ります。<br />
　そして画家の夏雄は、作品が新聞社の賞を受賞して画壇で高い評価を受けるまでになりながら、ある日突然虚無に陥るのです。</p>
<p>　富士の樹海。<br />
　山麓に果てしなく広がるこの森を描こうと考えた夏雄は、梅雨が明けたばかりのある夏の日に車を走らせます。<br />
　河口湖畔のホテル。高原のさわやかな朝の風。紅葉台の展望台を目指して赤土の斜面を登ります。その時目のまえで大きな羽ばたきが起き、一羽の山鳥が灌木の中から飛び立っていきます。<br />
　彼のほおをこするように高く上がっていった鳥の影に、夏雄はあえぎます。<br />
「何かが僕のなかから飛び去ってしまったのじゃないか」<br />
「飛び去ったのは、僕の魂じゃなかろうか」</p>
<h3>色は消え、虚無の空間が広がる</h3>
<p>　そしてたどり着いた展望台。目の前の美しく壮大な青木ヶ原。しかし夏雄はその景色を見ながら、突如として戦慄するのです。</p>
<p>「端のほうから木炭のデッサンをパン屑で消していくように、広大な樹海がまわりからぼんやりと消えかかる。おのおのの樹の輪郭も失われ、平坦な緑ばかりになる。その緑も覚束なくなって、周辺はみるみる色を失ってゆく」</p>
<p>　樹海は最後のおぼろげな緑の一団が消え去るのと一緒に、完全に消え去ってしまいました。そのあとには大地も何もなく、ただ虚無の空間だけが広がっていたのです。<br />
　恐怖に駆られて夏雄は赤土の急斜面を駆け下り、逃げ出しました。そしてそれっきり、彼の中から美は消え失せてしまいました。<br />
　絵を描けなくなった彼は、折から近づいてきた新興宗教の教祖のみちびきにはまり込み、どんどん道を逸脱して進むべき方向を見失っていくのです。</p>
<p>　四人はそうやって破滅し、三島の語った「壁」との戦いは忘れられます。<br />
　敗戦の眩しい瓦礫はすでに遠い過去のものとなり、繁栄の戦後社会が幕を開けようとしています。「鏡子の家」が書かれた一九五九年は、高度経済成長が力強い足音とともに行進をはじめたまさにその序盤の時代でした。</p>
<p>　前年の暮れ、東京タワーが完工します。<br />
　そして年が明けた五九年の春。後に平成天皇となられる若い皇太子と美智子さまの結婚パレード。沿道には五十万人以上が詰めかけ、そして猛烈な勢いで普及しつつあったテレビで千五百万人以上がパレードを見守りました。<br />
　五年後のオリンピック開催地が東京に決定します。<br />
　児島明子さんがアジア人として初めてのミスユニバースに選ばれます。<br />
　週刊誌ブームが巻き起こり、「週刊現代」や「週刊文春」「少年サンデー」「少年マガジン」などが次々に創刊されました。<br />
　暮れには安保反対運動の嵐が吹き荒れ、十一月末にはデモ隊二万人が国会に突入しました。その年の暮れにはレコード大賞が創設され、第一回には水原弘さんの「黒い花びら」が受賞しました。<br />
　そのようにして時代はごうごうと音を立て、「焼け跡」は姿を消していって、「高度経済成長」という次の舞台へと変わっていったのです。</p>
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		<title>Chapter6</title>
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		<pubDate>Sun, 31 Jul 2011 01:24:43 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
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		<description><![CDATA[犯人が多すぎて検挙できない 　一九四五年の輝かしい瓦礫のその日。 　一九五五年、夏雄が見た樹海の消滅。 　その十年の間に、いったい何が起きたのでしょうか。 　焼け跡の苦痛の時代は長く続き、青空のもとで立ち上がったはずの政治や経済は腐敗していきます。成金が生まれ、そうした闇商人たちが跳梁跋扈する闇市。救援　物資はどこかで横領されて、闇経済に呑み込まれてしまいます。 　この時期、「隠退蔵物資」という事件が新聞を毎日のように賑わせていました。 国民にはまったく物資が届かず、餓死する人さえいた状況の中で、日本軍が戦中に民間から接収していた膨大な物資がひそかに横流しされていたことが明らかになったのです。 　この事件を暴いたのは、参議院議員だった世耕弘さんでした。世耕さんは非公式のこの事件を調査し始め、その結果、一九四七年に国会で、「日銀の地下倉庫に隠退蔵物資のダイヤモンドがあり、密かに売買されている」と爆弾発言します。 　その後国会にこの事件を調べる特別委員会が作られ、恐ろしいほどの腐敗が明らかになっていきました。 　愛国婦人会の女性たちが戦争に協力しようと寄付したダイヤモンドや貴金属類。海外から持ち帰られた希少な金属や薬品。戦前、本土防衛のためにたくわえられていたはずの膨大な宝物が、ほとんど雲散霧消してしまっていたのです。 　四七年の一年間だけで発見された隠退蔵物資は、総計で三〇〇億円以上にもなったと言われています。この年の国家予算は、わずか二〇五〇億円。 　そしてこの隠退蔵事件では、犯人はだれひとり起訴されないまま終わりました。官僚の上から下まで、政治家から警察官、元軍人とありとあらゆる人たちがこの不正に手を貸していたため、摘発しようがなかったというのが現実でした。 　民主主義の仮面をかぶっていても、ひと皮めくれば「この混乱がずっと続けば儲かるんだがな」と思っている悪人たち。その悪人はどこか遠くの場所にいて突然襲来してくる異邦人ではなく、自分たちのすぐ身の回りにいる普通の人たちだったのです。 　そういう仲間だったはずの悪人たちの跳梁跋扈に人々は疲れ、みじめな気持ちへと陥っていきます。 　戦前の大日本帝国では、「私たちの国が危機にさらされているんだ」「このままでは私たちの国が危ない」という危機が共有されて、だからみな「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで」きたのです。 　でもそういう帝国の神話は、一九四五年の八月十五日をもって終了してしまいました。 神話は終わってしまった 　そしてその先には、何も神話が待っていない。 　その神話を自分で作っていこう。そういう気概の人たちもたくさんいました。でも敗戦後の泥沼のなかで、僕たちはだんだんに疲れていってしまいます。 「どうして僕らはこんな酷い目に遭わなければいけないのか」「いったい誰のためなんだ？」 　そんな疑問が湧いて出てくるのは、当然の流れでした。 　そしてまた、僕たち日本人には、戦争で戦って本当の神話となってしまった友人たちがたくさんいました。戦死した英霊たちです。 　あの死者たちに、僕たちはどのような言葉を投げればいいのか？　「あの戦争は間違いだった」と言えるのか？　「価値観はもう変わったんだよ」と軽々しく言えるのか？　じゃあどうすれば弔えるのか？ 　敗戦時、東京帝国大学総長だった南原繁さんは二十一年三月、戦没職員学徒慰霊祭でこう語りかけます。 「不幸にして真理と正義はわれらのうえにはなく、米英のうえにとまった。それはただに『戦に勝った者が正義』というのではなく、世界歴史における厳然たる『理性の審判』であり、われらとともに敗戦の悲痛の中からおごそかにその宣告を受け取らなければならぬ」 　そしてこれは日本民族にとっての十字架である、と。僕らはそれに耐え、忍ばなければならないのだ、と。 　そして、英霊たちはこの十字架の下で、日本民族の捧げならなければならなかった犠牲。日本人全員の罪悪に対する贖罪の犠牲なのだ、と南原さんは語りました。 　ではなぜ僕たちは、そのよう真理も正義もなく、理性の審判に打ち負かされなければならなかった戦争に向かってしまったのでしょうか？ 　敗戦までの何年もの間、日本人はどこをどうたどって来たのでしょう。混沌となり、錯乱し、まるでもやもやとした夢の中をさまよってきたかのようじゃないか、と。でもそんな夢の中だったはずなのに、それにしてはあまりにも厳しい歴史の現実が待ち構えていて、その中を生きる日本人は不安と焦燥、緊張と興奮、絶望と悲哀のつづれ織りのようでした。 　じゃあなぜそんな目に？ ただならぬ時代の流れのなかに 　南原繁さんは語ります。 「今や白日の下にさらされたことは、軍閥、超国家主義者ら少数者の無知と無謀と野望によって企てられたただ戦争一途と、しこうして没落の断崖めがけて、国を挙げての突入であった」 　つまり、軍部や極右の少数の者たちが、彼らの無知と無謀と野望によって戦争を企てたのだというのです。これによって敗戦という予測された結末に向け、国を挙げて戦争に突入してしまっていったのだったと。 　それを知らずに僕たちは、正義と真理のためだと信じて戦ったのだと南原さんは言うのです。 　でも本当にそうだったのでしょうか？　本当に「少数者の無知と無謀と野望」のためにすべてが暗黒に呑み込まれてしまったのでしょうか？ 　南原さんは戦争中、キリスト教徒でありながらも教え子たちを戦地へと送り込まなければなりませんでした。 　戦争中、その時代精神に対して、南原さんは沈黙とともに抵抗しました。応召学徒の壮行会に挨拶に立つときも、ひとことも「勇躍戦地に赴いて戦うべし」などとは言わず、「ゲーテ『ファウスト』の課題」などという文弱なスピーチをもって教え子たちを送り出したのです。「諸君の征ったあと、残るものは少数となっても、大学と学問の自由を守る」と決別の辞を述べたこともありました。 　さらに戦争末期には、東京帝大の他の六人の教授たちとともに、勇をふるって戦争の終結を鈴木貫太郎首相に進言までしています。 　それでも彼は、教育者として自分の教え子を死地へと向かわせる、その痛みと真正面から向き合わなければなりませんでした。相克する人間としての価値と、政治の運命。その相克と南原さんは向きあわなければならなかったのです。 &#8230; <a href="http://www.bokura.jp/2011/07/chapter6/">Continue reading <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div class="cnt"><img src="http://www.bokura.jp/wp-content/uploads/2011/07/img_chapter6.jpg" alt="「普通の人」だった悪人たち" title="「普通の人」だった悪人たち" width="431" height="614" class="alignnone size-full wp-image-57" unselectable="on" oncontextmenu="return false" galleryimg="no" /></div>
<h3>犯人が多すぎて検挙できない</h3>
<p>　一九四五年の輝かしい瓦礫のその日。<br />
　一九五五年、夏雄が見た樹海の消滅。<br />
　その十年の間に、いったい何が起きたのでしょうか。<br />
　焼け跡の苦痛の時代は長く続き、青空のもとで立ち上がったはずの政治や経済は腐敗していきます。成金が生まれ、そうした闇商人たちが跳梁跋扈する闇市。救援　物資はどこかで横領されて、闇経済に呑み込まれてしまいます。</p>
<p>　この時期、「隠退蔵物資」という事件が新聞を毎日のように賑わせていました。<br />
国民にはまったく物資が届かず、餓死する人さえいた状況の中で、日本軍が戦中に民間から接収していた膨大な物資がひそかに横流しされていたことが明らかになったのです。<br />
　この事件を暴いたのは、参議院議員だった世耕弘さんでした。世耕さんは非公式のこの事件を調査し始め、その結果、一九四七年に国会で、「日銀の地下倉庫に隠退蔵物資のダイヤモンドがあり、密かに売買されている」と爆弾発言します。<br />
　その後国会にこの事件を調べる特別委員会が作られ、恐ろしいほどの腐敗が明らかになっていきました。<br />
　愛国婦人会の女性たちが戦争に協力しようと寄付したダイヤモンドや貴金属類。海外から持ち帰られた希少な金属や薬品。戦前、本土防衛のためにたくわえられていたはずの膨大な宝物が、ほとんど雲散霧消してしまっていたのです。<br />
　四七年の一年間だけで発見された隠退蔵物資は、総計で三〇〇億円以上にもなったと言われています。この年の国家予算は、わずか二〇五〇億円。</p>
<p>　そしてこの隠退蔵事件では、犯人はだれひとり起訴されないまま終わりました。官僚の上から下まで、政治家から警察官、元軍人とありとあらゆる人たちがこの不正に手を貸していたため、摘発しようがなかったというのが現実でした。<br />
　民主主義の仮面をかぶっていても、ひと皮めくれば「この混乱がずっと続けば儲かるんだがな」と思っている悪人たち。その悪人はどこか遠くの場所にいて突然襲来してくる異邦人ではなく、自分たちのすぐ身の回りにいる普通の人たちだったのです。<br />
　そういう仲間だったはずの悪人たちの跳梁跋扈に人々は疲れ、みじめな気持ちへと陥っていきます。<br />
　戦前の大日本帝国では、「私たちの国が危機にさらされているんだ」「このままでは私たちの国が危ない」という危機が共有されて、だからみな「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで」きたのです。</p>
<p>　でもそういう帝国の神話は、一九四五年の八月十五日をもって終了してしまいました。</p>
<h3>神話は終わってしまった</h3>
<p>　そしてその先には、何も神話が待っていない。<br />
　その神話を自分で作っていこう。そういう気概の人たちもたくさんいました。でも敗戦後の泥沼のなかで、僕たちはだんだんに疲れていってしまいます。<br />
「どうして僕らはこんな酷い目に遭わなければいけないのか」「いったい誰のためなんだ？」<br />
　そんな疑問が湧いて出てくるのは、当然の流れでした。</p>
<p>　そしてまた、僕たち日本人には、戦争で戦って本当の神話となってしまった友人たちがたくさんいました。戦死した英霊たちです。<br />
　あの死者たちに、僕たちはどのような言葉を投げればいいのか？　「あの戦争は間違いだった」と言えるのか？　「価値観はもう変わったんだよ」と軽々しく言えるのか？　じゃあどうすれば弔えるのか？<br />
　敗戦時、東京帝国大学総長だった南原繁さんは二十一年三月、戦没職員学徒慰霊祭でこう語りかけます。</p>
<p>「不幸にして真理と正義はわれらのうえにはなく、米英のうえにとまった。それはただに『戦に勝った者が正義』というのではなく、世界歴史における厳然たる『理性の審判』であり、われらとともに敗戦の悲痛の中からおごそかにその宣告を受け取らなければならぬ」</p>
<p>　そしてこれは日本民族にとっての十字架である、と。僕らはそれに耐え、忍ばなければならないのだ、と。<br />
　そして、英霊たちはこの十字架の下で、日本民族の捧げならなければならなかった犠牲。日本人全員の罪悪に対する贖罪の犠牲なのだ、と南原さんは語りました。</p>
<p>　ではなぜ僕たちは、そのよう真理も正義もなく、理性の審判に打ち負かされなければならなかった戦争に向かってしまったのでしょうか？<br />
　敗戦までの何年もの間、日本人はどこをどうたどって来たのでしょう。混沌となり、錯乱し、まるでもやもやとした夢の中をさまよってきたかのようじゃないか、と。でもそんな夢の中だったはずなのに、それにしてはあまりにも厳しい歴史の現実が待ち構えていて、その中を生きる日本人は不安と焦燥、緊張と興奮、絶望と悲哀のつづれ織りのようでした。<br />
　じゃあなぜそんな目に？</p>
<h3>ただならぬ時代の流れのなかに</h3>
<p>　南原繁さんは語ります。<br />
「今や白日の下にさらされたことは、軍閥、超国家主義者ら少数者の無知と無謀と野望によって企てられたただ戦争一途と、しこうして没落の断崖めがけて、国を挙げての突入であった」</p>
<p>　つまり、軍部や極右の少数の者たちが、彼らの無知と無謀と野望によって戦争を企てたのだというのです。これによって敗戦という予測された結末に向け、国を挙げて戦争に突入してしまっていったのだったと。<br />
　それを知らずに僕たちは、正義と真理のためだと信じて戦ったのだと南原さんは言うのです。<br />
　でも本当にそうだったのでしょうか？　本当に「少数者の無知と無謀と野望」のためにすべてが暗黒に呑み込まれてしまったのでしょうか？</p>
<p>　南原さんは戦争中、キリスト教徒でありながらも教え子たちを戦地へと送り込まなければなりませんでした。<br />
　戦争中、その時代精神に対して、南原さんは沈黙とともに抵抗しました。応召学徒の壮行会に挨拶に立つときも、ひとことも「勇躍戦地に赴いて戦うべし」などとは言わず、「ゲーテ『ファウスト』の課題」などという文弱なスピーチをもって教え子たちを送り出したのです。「諸君の征ったあと、残るものは少数となっても、大学と学問の自由を守る」と決別の辞を述べたこともありました。<br />
　さらに戦争末期には、東京帝大の他の六人の教授たちとともに、勇をふるって戦争の終結を鈴木貫太郎首相に進言までしています。<br />
　それでも彼は、教育者として自分の教え子を死地へと向かわせる、その痛みと真正面から向き合わなければなりませんでした。相克する人間としての価値と、政治の運命。その相克と南原さんは向きあわなければならなかったのです。</p>
<p>　相寄りてともに学びし若きらのいづこの涯（はて）にたたかふらむか<br />
　学生にてありたる君等たたかひにいのち献げて悔なしといふか<br />
　君死にと聞きにしときに思ほえずわが声出でて嘆きたるかな<br />
　ただならぬ時代（とき）の流れのなかにして汝（な）がたましひを溺れざらしめ</p>
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		<title>Chapter7</title>
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		<pubDate>Sun, 31 Jul 2011 01:23:39 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[相克に向き合い続けるということ 　教育者として自分の教え子を死地へと向かわせるという相克。 　この痛みを、南原繁さんが胸中どのように考えていたのか。自分自身のことについては、彼は戦後多くは語っていません。 　南原さんは戦争が終わった直後の四五年十二月に東京帝大総長に就任し、荒廃してしまった大学の再建に努力しながら、「新たな国民精神の創造」を呼びかけ続けました。 　そして四六年には、日本の国民が建国以来の完全な敗北と悲惨な状態におちいったことに対する道徳的、精神的な責任をとって天皇陛下が退位すべきだとも語りました。 　彼は昭和天皇が、多難な時代の中で歴代の天皇にはなかったような悲惨な運命にさらされていたことに深く同情し、だから政治に翻弄された陛下には政治的な責任はなかったとも語っています。政治・法律としての責任と、道徳・精神としての責任。その二つの責任の狭間で宙ぶらりんになっている天皇陛下。 　そういうお立場の相克への深い同情と、それでも「責任はとらなければならない」と語った南原さんの主張には、このような相克に対する彼自身の真摯な向き合いがあったことが伝わってきます。 　しかしこの相克への向きあいは多くの日本人の間には広がっていきませんでした。 　いやそれどころか、まったく違う状況が、そこには現出していきました。 　戦後になってから太平洋戦争が「少数者の無知と無謀と野望」のためだった、と大声で叫ぶ人たちがもの凄いいきおいで現れてきたのです。 　とてもとても、残念なことに。 　敗戦からまもなく、突如として「戦争は軍が勝手に引き起こしたことだ」といった言論がぶくぶくと泡のようにふくれあがり、沸騰して蒸気となって日本中に拡散していきます。 　毎日新聞記者だった森正蔵さんが書いた「旋風二十年」という本がベストセラーになりました。なぜ戦争が起きたのかという軍部の裏面史を初めてあばいたこの本は、そういう空気を後押しするのに十分な爆発力を持っていました。 「やっぱり俺たちは悪くなかったんだ」 「私たちはだまされていたんだ」 「心ある国民はずっと戦争には反対だったのに、みんな軍が悪い」 　そんなふうにして、戦争の責任はすべて軍に負わせられていきます。 一億総懺悔の軽率 　いっぽうで敗戦の直後に首相に就任した東久邇宮稔彦王は、「一億総懺悔」をとなえました。国会でこんな意味のことを語ったのです。 「敗戦の理由はひとつではありません。前線も銃後も、軍隊も官僚も一般国民も、すべての国民がみなで静かに反省しなければならないのです。私たちはいまこそみんなで懺悔し、神のまえで心を洗い清め、過去を将来への教訓として、心を新たにしましょう」 　これにはみんなが怒りあきれました。「どうして国民みんなで懺悔しなければならないんですか」「戦争を決断したのは政府じゃないですか。なぜ僕らの連帯責任に？」 　そう、たしかに東久邇宮首相はたいへんに軽率だったといえるでしょう。何しろこの発言は九月五日。敗戦の日からまだ三週間しか経っていなかったのですから。なぜ戦争に負けたのか。それがまだまったく検証されていないのに、「皆で総懺悔しましょう」なんて。いきなり「国民全員の責任です」だなんて、あまりにも軽い発言だったと言われてもしかたなかったと思います。 　政治家たちが自分たちの責任から逃れるために言っている方便だ、と批判されるのは当然です。 　でも本当にそうやって「おまえらの責任だ」と非難するだけで良かったのでしょうか？ 　責任を問うこと。責任を負うこと。 「みんなが悪いんです。みんなで責任を取りましょう」という言葉。 「私が悪いんじゃありません。悪いのは軍部や政治家です」という言葉。 　振り返れば、どちらも無責任だったのではないでしょうか。 　本当は、だれにでも責任はある。でもその責任は多様。すべての人が同じ責任を持っているわけじゃないけど、でもだからといってすべての責任を少数の人に押しつけるのも間違っている。 　とてもシンプルな話ではないでしょうか。 　昭和初期、戦争へと追い込まれていった日本。政府が適切な対応を採らなかったため、いやおうなく戦争を始めてしまったことの責任を取らなければなりません。そして過大な権力を持ってしまったことで、「自分たちが国を守るんだ」という根拠のない自意識が肥大し、確信的に戦線を拡大してしまった軍も。 　でもそんな軍の暴走に喝采を送っていたのは、国民でした。 　政府の後手後手の後ろ向きな対応に「そんなことだから欧米の列強に押し切られるんだ」と業を煮やしていたのも国民でした。 　戦意をもっと高揚しようと叫んでいたのは、町内会や隣組や婦人会に参加している隣のおじさんやおばさんたちでした。 「この戦争は明るい」と叫んだ僕たち 　みんな忘れてしまっていたのです。 　新聞をはじめ、国論が戦争を求めたのだということを。 　真珠湾攻撃が始まったその日。 　中国文学者竹内好はこう書いています。 「歴史は作られた。世界は一夜にして変貌した。われらは目のあたりにそれを見た。感動にうちふるえながら、虹のように流れる一すじの光芒のゆくえを見守った」 &#8230; <a href="http://www.bokura.jp/2011/07/chapter7/">Continue reading <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div class="cnt"><img src="http://www.bokura.jp/wp-content/uploads/2011/07/img_chapter7.jpg" alt="「騙された」と叫ぶ人たち" title="「騙された」と叫ぶ人たち" width="560" height="431" class="alignnone size-full wp-image-60" unselectable="on" oncontextmenu="return false" galleryimg="no" /></div>
<h3>相克に向き合い続けるということ</h3>
<p>　教育者として自分の教え子を死地へと向かわせるという相克。<br />
　この痛みを、南原繁さんが胸中どのように考えていたのか。自分自身のことについては、彼は戦後多くは語っていません。<br />
　南原さんは戦争が終わった直後の四五年十二月に東京帝大総長に就任し、荒廃してしまった大学の再建に努力しながら、「新たな国民精神の創造」を呼びかけ続けました。<br />
　そして四六年には、日本の国民が建国以来の完全な敗北と悲惨な状態におちいったことに対する道徳的、精神的な責任をとって天皇陛下が退位すべきだとも語りました。<br />
　彼は昭和天皇が、多難な時代の中で歴代の天皇にはなかったような悲惨な運命にさらされていたことに深く同情し、だから政治に翻弄された陛下には政治的な責任はなかったとも語っています。政治・法律としての責任と、道徳・精神としての責任。その二つの責任の狭間で宙ぶらりんになっている天皇陛下。<br />
　そういうお立場の相克への深い同情と、それでも「責任はとらなければならない」と語った南原さんの主張には、このような相克に対する彼自身の真摯な向き合いがあったことが伝わってきます。</p>
<p>　しかしこの相克への向きあいは多くの日本人の間には広がっていきませんでした。<br />
　いやそれどころか、まったく違う状況が、そこには現出していきました。<br />
　戦後になってから太平洋戦争が「少数者の無知と無謀と野望」のためだった、と大声で叫ぶ人たちがもの凄いいきおいで現れてきたのです。<br />
　とてもとても、残念なことに。</p>
<p>　敗戦からまもなく、突如として「戦争は軍が勝手に引き起こしたことだ」といった言論がぶくぶくと泡のようにふくれあがり、沸騰して蒸気となって日本中に拡散していきます。<br />
　毎日新聞記者だった森正蔵さんが書いた「旋風二十年」という本がベストセラーになりました。なぜ戦争が起きたのかという軍部の裏面史を初めてあばいたこの本は、そういう空気を後押しするのに十分な爆発力を持っていました。<br />
「やっぱり俺たちは悪くなかったんだ」<br />
「私たちはだまされていたんだ」<br />
「心ある国民はずっと戦争には反対だったのに、みんな軍が悪い」<br />
　そんなふうにして、戦争の責任はすべて軍に負わせられていきます。</p>
<h3>一億総懺悔の軽率</h3>
<p>　いっぽうで敗戦の直後に首相に就任した東久邇宮稔彦王は、「一億総懺悔」をとなえました。国会でこんな意味のことを語ったのです。</p>
<p>「敗戦の理由はひとつではありません。前線も銃後も、軍隊も官僚も一般国民も、すべての国民がみなで静かに反省しなければならないのです。私たちはいまこそみんなで懺悔し、神のまえで心を洗い清め、過去を将来への教訓として、心を新たにしましょう」</p>
<p>　これにはみんなが怒りあきれました。「どうして国民みんなで懺悔しなければならないんですか」「戦争を決断したのは政府じゃないですか。なぜ僕らの連帯責任に？」<br />
　そう、たしかに東久邇宮首相はたいへんに軽率だったといえるでしょう。何しろこの発言は九月五日。敗戦の日からまだ三週間しか経っていなかったのですから。なぜ戦争に負けたのか。それがまだまったく検証されていないのに、「皆で総懺悔しましょう」なんて。いきなり「国民全員の責任です」だなんて、あまりにも軽い発言だったと言われてもしかたなかったと思います。</p>
<p>　政治家たちが自分たちの責任から逃れるために言っている方便だ、と批判されるのは当然です。</p>
<p>　でも本当にそうやって「おまえらの責任だ」と非難するだけで良かったのでしょうか？</p>
<p>　責任を問うこと。責任を負うこと。<br />
「みんなが悪いんです。みんなで責任を取りましょう」という言葉。<br />
「私が悪いんじゃありません。悪いのは軍部や政治家です」という言葉。<br />
　振り返れば、どちらも無責任だったのではないでしょうか。<br />
　本当は、だれにでも責任はある。でもその責任は多様。すべての人が同じ責任を持っているわけじゃないけど、でもだからといってすべての責任を少数の人に押しつけるのも間違っている。<br />
　とてもシンプルな話ではないでしょうか。</p>
<p>　昭和初期、戦争へと追い込まれていった日本。政府が適切な対応を採らなかったため、いやおうなく戦争を始めてしまったことの責任を取らなければなりません。そして過大な権力を持ってしまったことで、「自分たちが国を守るんだ」という根拠のない自意識が肥大し、確信的に戦線を拡大してしまった軍も。<br />
　でもそんな軍の暴走に喝采を送っていたのは、国民でした。<br />
　政府の後手後手の後ろ向きな対応に「そんなことだから欧米の列強に押し切られるんだ」と業を煮やしていたのも国民でした。<br />
　戦意をもっと高揚しようと叫んでいたのは、町内会や隣組や婦人会に参加している隣のおじさんやおばさんたちでした。</p>
<h3>「この戦争は明るい」と叫んだ僕たち</h3>
<p>　みんな忘れてしまっていたのです。<br />
　新聞をはじめ、国論が戦争を求めたのだということを。<br />
　真珠湾攻撃が始まったその日。<br />
　中国文学者竹内好はこう書いています。<br />
「歴史は作られた。世界は一夜にして変貌した。われらは目のあたりにそれを見た。感動にうちふるえながら、虹のように流れる一すじの光芒のゆくえを見守った」<br />
　小説家伊藤整の日記。<br />
「大東亜戦争直前の重っ苦しさもなくなっている。実にこの戦争はいい、明るい」</p>
<p>　敗戦翌年の昭和二十一年四月。<br />
　映画監督の伊丹万作は、「戦争責任者の問題」というコラムを雑誌「映画春秋」の創刊号に書きます。「マルサの女」などで有名な故伊丹十三監督の父です。<br />
　戦争に協力した者の責任を大声で叫ぶような動きは、日本のいたるところに広がっていました。<br />
　それは映画界にも。<br />
　戦争を賛美し、戦意を高揚するための作品を戦争中に撮っていた監督やプロデューサーたちが、やり玉に上がりました。その批判の急先鋒も、同じ映画界の労働組合やプロデューサー、脚本家、批評家たちでした。彼らが自由映画人連盟という戦争責任者を追及するための団体を作って、自分の元仲間たちの糾弾をはじめたのです。<br />
　伊丹さんは言います。「みんな、今度の戦争でだまされたと言ってる。みんなが口をそろえてる。でも私の知ってる限り、『おれがだました』って言ってる人はひとりもいないな」<br />
　多くの日本人は、「だました人」と「だまされた人」の境がはっきりしてると思っていました。でも本当にそうだったのでしょうか。<br />
　一般国民は口をそろえて「軍と官僚にだまされた」と言います。<br />
　でも軍と官僚の中の人は口をそろえて「上司にだまされた」と言います。<br />
　その上司にきいてみると、口をそろえて「もっと上の者にだまされた」と言います。<br />
　そうやって突き詰めていくと、最後はひとりかふたりになってしまいます。でもそんなひとりやふたりの知恵で、一億人がだませるわけはないでしょう？<br />
　伊丹さんは、ごく真っ当にそう指摘するのです。</p>
<h3>みんながだまし、だまされたのだ</h3>
<p>　じゃあだれがだましたのでしょうか？<br />
　だました人はきっともっとたくさんいたはずです。でもそれは「だました人」と「だまされた人」がくっきりと分かれていたわけじゃない。ある人はときに誰かにだまされ、その人は別の機会にはだれかをだましたのかもしれない。そういうことが際限なくくりかえされていたのです。<br />
　日本人みんなが夢中になって、お互いにだましたりだまされたりをくりかえしていたのです。</p>
<p>　伊丹さんは言います。戦争の間、だれが自分たちを苦しめたのかと思い出すときに、真っ先に記憶からよみがえってくるのは近所の商店主や町内会長や郊外のお百姓さんや、あるいは区役所や郵便局の役人たちではないですか、と。ありとあらゆる身近な人たちが、自分たちをいちばん苦しめていたじゃないですか、と。<br />
　もちろんみなが悪人だったからそんなことになってしまったわけではありません。<br />
　そんなふうに戦争は、国民同士が苦しめ合わなければならないことになってしまったということなのです。<br />
　決して「僕はだまされていた！」と叫ぶことではないのです。<br />
　とても重くてつらいけれども、その事実を認めなければならないこと。<br />
　僕たち自身が、だましてだまされて、お互いを苦しめ合わなければならない状況に陥ってしまっていたんだ、ということを認めるということ。<br />
　そしてこれからは、決してお互いにだまし、だまされるような関係を作り出さないこと。<br />
　きちんと反省し、二度とだまされないように理性を保って、信念を保って、だれかのことばに盲従しないで、自律的に考えていくこと。<br />
　それが僕たちが「戦時下の日本人」という当事者として、責任を取るということだったはずなのです。<br />
「だます人」「だまされる人」という悲しいほどに単純すぎる区分けではなく、ひとりひとりの当事者としてのあり方を自分で見つめ直すということ。</p>
<p>　それが求められていたことだったはずなのです。</p>
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		<title>Chapter8</title>
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		<pubDate>Sun, 31 Jul 2011 01:22:54 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
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		<description><![CDATA[果たされなかった責任 　「だます人」「だまされる人」という単純な区分けではなく、ひとりひとりの当事者としてのあり方を自分で見つめ直すということ。それが太平洋戦争が終わったとき、僕らに求められていた行動だったはずです。 　でも残念ながら、戦後の日本でその責任は最後まで果たされませんでした。 　ひとりひとりの色は取り戻されず、「だまされた人」が「だました人」たちを声高に非難し、そうして追放され、戦時下の当事者としての責任はあいまいなままで戦後の長い年月が過ぎていってしまったのです。 　作家三島由紀夫はその生ぬるさから逃れようとし、その生ぬるい単色に色を取り戻そうと願いました。しかし彼は最後はみずから破滅に向かって進んでいき、戦後社会に叛旗を翻したあげくに自決します。 ある早春の朝、色は取り戻される 　三島の願いは、一九五九年の「鏡子の家」の最後に描かれています。 　目の前に望む樹海の色を失い、絵が描けなくなった日本画家の夏雄。三島はこの若者を、物語の最後で美しく立ち上がらせているのです。 　あの絶望的な経験から長い年月が経ったある早春の朝。 　夏雄は目覚めると、枕もとに一本の水仙が横たえられているのに気づきます。 　その花は清冽で汚れひとつありませんでした。その水仙の花は、夏雄に鮮やかに色を取り戻させるのです。 　「僕は片手に水仙を持ったまま寝床から立って、久しくあけない窓をあけに行った。すると早春の日ざしの中に、今年はじめての和やかな風の運んでくる、ものの匂いや音のかずかずが、俄かに僕の耳を領した。 　家は高台になっているので、遠いデパートやビル街やそこに浮かぶ広告気球や、高架線の上を光って走る電車までがはるかに見える。風の加減で、雑多な物音もまじってきこえる。すべてが今朝は洗われているように見える」 　僕たち自身の色を、僕たち自身で取り戻すということ。 　誰かに頼らず、誰かに依拠せず、みずからの責任で自分だけの色に自分を染め上げていくということ。 　戦争に負け、大日本帝国という神話が終焉を迎えたその日、日本人はそう決意したはずでした。安吾が「堕落論」に書いたように、 　「これからは美しい美学に頼らず生きていくのだ」 　と。 　しかし戦後の復興と高度経済成長、そして世界に冠たる日本企業の復活は、僕たちの祖国に再び別の神話をつくりだしていってしまいます。神話のなくなった先に、神話に頼らない新たな「堕落」した人間の社会を——という安吾の願いは、かないませんでした。 高度成長の輝き 　一九五〇年。 　朝鮮戦争が始まります。 　この戦争で、日本はいっきに経済を回復させていきます。戦争は戦地ではない後背地の経済を活性化させるというのは昔から言われていたことですが、これが見事に当てはまりました。戦争で使うさまざまな武器弾薬、軍服、鋼材といったさまざまな物資が日本から輸出されました。それまで焼け跡のまま麻痺していた日本人は、この軍需物資の製造のために国中を挙げて全力を尽くし、そしてこれが日本の経済を見事に復活させることになりました。一気に好景気へとなだれ込んでいったのです。 　これによって戦後の復興はみごとに行われ、そして五〇年代後半からの高度経済成長へと弾みをつけていくことができたのでした。 　高度成長。この大がかりな神話は僕たちの社会に新たな勝利体験を与え、晴れやかな長い長い午後がその時から始まったのです。 　振り返れば、米軍は、僕たちにとっての神々だったのかもしれません。すべてを任せておけば、よきにはからってくれる存在。「絶対安全」や「豊かな生活」をもたらし、精神の健全を守ってくれる存在。 　戦前の大日本帝国という神。その神はしかし敗戦とともに退場し、そしてその後にやってきたのが米軍という新しい神でした。 　紅潮した頬と良い体格をしたパリッとした制服姿の神は、僕たちに戦後の物資を与え、朝鮮戦争特需とその後の高度経済成長という新しい神話をもたらしたのです。 神話の国、戦後日本 　そうしてこの長い午後の間に、日本はふたたび神話の国となっていきました。その神話はかつての大日本帝国のような勇ましい軍神の神話ではありません。新たな経済と産業の神話の時代が幕を開けたのです。 「銀行不倒神話」 「土地神話」 「成長神話」 「総中流神話」 「検察正義神話」 「原発安全神話」 「持ち家神話」 「ものづくり神話」 　僕らが作り出した神話。 　それは僕らの生み出した輝かしい成果でした。でもその成果は神話となることで、再び現実から乖離していきます。 &#8230; <a href="http://www.bokura.jp/2011/07/chapter8/">Continue reading <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div class="cnt"><img src="http://www.bokura.jp/wp-content/uploads/2011/07/img_chapter8.jpg" alt="そして神話は再び甦った" title="そして神話は再び甦った" width="560" height="316" class="alignnone size-full wp-image-65" unselectable="on" oncontextmenu="return false" galleryimg="no" /></div>
<h3>果たされなかった責任</h3>
<p>　「だます人」「だまされる人」という単純な区分けではなく、ひとりひとりの当事者としてのあり方を自分で見つめ直すということ。それが太平洋戦争が終わったとき、僕らに求められていた行動だったはずです。</p>
<p>　でも残念ながら、戦後の日本でその責任は最後まで果たされませんでした。</p>
<p>　ひとりひとりの色は取り戻されず、「だまされた人」が「だました人」たちを声高に非難し、そうして追放され、戦時下の当事者としての責任はあいまいなままで戦後の長い年月が過ぎていってしまったのです。</p>
<p>　作家三島由紀夫はその生ぬるさから逃れようとし、その生ぬるい単色に色を取り戻そうと願いました。しかし彼は最後はみずから破滅に向かって進んでいき、戦後社会に叛旗を翻したあげくに自決します。</p>
<h3>ある早春の朝、色は取り戻される</h3>
<p>　三島の願いは、一九五九年の「鏡子の家」の最後に描かれています。<br />
　目の前に望む樹海の色を失い、絵が描けなくなった日本画家の夏雄。三島はこの若者を、物語の最後で美しく立ち上がらせているのです。<br />
　あの絶望的な経験から長い年月が経ったある早春の朝。<br />
　夏雄は目覚めると、枕もとに一本の水仙が横たえられているのに気づきます。<br />
　その花は清冽で汚れひとつありませんでした。その水仙の花は、夏雄に鮮やかに色を取り戻させるのです。</p>
<p>　「僕は片手に水仙を持ったまま寝床から立って、久しくあけない窓をあけに行った。すると早春の日ざしの中に、今年はじめての和やかな風の運んでくる、ものの匂いや音のかずかずが、俄かに僕の耳を領した。<br />
　家は高台になっているので、遠いデパートやビル街やそこに浮かぶ広告気球や、高架線の上を光って走る電車までがはるかに見える。風の加減で、雑多な物音もまじってきこえる。すべてが今朝は洗われているように見える」</p>
<p>　僕たち自身の色を、僕たち自身で取り戻すということ。<br />
　誰かに頼らず、誰かに依拠せず、みずからの責任で自分だけの色に自分を染め上げていくということ。<br />
　戦争に負け、大日本帝国という神話が終焉を迎えたその日、日本人はそう決意したはずでした。安吾が「堕落論」に書いたように、<br />
　「これからは美しい美学に頼らず生きていくのだ」<br />
　と。<br />
　しかし戦後の復興と高度経済成長、そして世界に冠たる日本企業の復活は、僕たちの祖国に再び別の神話をつくりだしていってしまいます。神話のなくなった先に、神話に頼らない新たな「堕落」した人間の社会を——という安吾の願いは、かないませんでした。</p>
<h3>高度成長の輝き</h3>
<p>　一九五〇年。<br />
　朝鮮戦争が始まります。<br />
　この戦争で、日本はいっきに経済を回復させていきます。戦争は戦地ではない後背地の経済を活性化させるというのは昔から言われていたことですが、これが見事に当てはまりました。戦争で使うさまざまな武器弾薬、軍服、鋼材といったさまざまな物資が日本から輸出されました。それまで焼け跡のまま麻痺していた日本人は、この軍需物資の製造のために国中を挙げて全力を尽くし、そしてこれが日本の経済を見事に復活させることになりました。一気に好景気へとなだれ込んでいったのです。</p>
<p>　これによって戦後の復興はみごとに行われ、そして五〇年代後半からの高度経済成長へと弾みをつけていくことができたのでした。<br />
　高度成長。この大がかりな神話は僕たちの社会に新たな勝利体験を与え、晴れやかな長い長い午後がその時から始まったのです。</p>
<p>　振り返れば、米軍は、僕たちにとっての神々だったのかもしれません。すべてを任せておけば、よきにはからってくれる存在。「絶対安全」や「豊かな生活」をもたらし、精神の健全を守ってくれる存在。<br />
　戦前の大日本帝国という神。その神はしかし敗戦とともに退場し、そしてその後にやってきたのが米軍という新しい神でした。<br />
　紅潮した頬と良い体格をしたパリッとした制服姿の神は、僕たちに戦後の物資を与え、朝鮮戦争特需とその後の高度経済成長という新しい神話をもたらしたのです。</p>
<h3>神話の国、戦後日本</h3>
<p>　そうしてこの長い午後の間に、日本はふたたび神話の国となっていきました。その神話はかつての大日本帝国のような勇ましい軍神の神話ではありません。新たな経済と産業の神話の時代が幕を開けたのです。</p>
<p>「銀行不倒神話」<br />
「土地神話」<br />
「成長神話」<br />
「総中流神話」<br />
「検察正義神話」<br />
「原発安全神話」<br />
「持ち家神話」<br />
「ものづくり神話」</p>
<p>　僕らが作り出した神話。<br />
　それは僕らの生み出した輝かしい成果でした。でもその成果は神話となることで、再び現実から乖離していきます。<br />
　本当は、僕らはものづくりや土地や成長や原発の安全を「神話」として扱うべきではありませんでした。しかしそこに「神話」という詩的な言葉を与えてしまったがゆえに、それらは絶対的な存在に変身してしまう。<br />
　それはつねに検証し、つねに鍛え直し、つねに錬っていく「僕ら自身の努力」ではなくなってしまったのです。神話となった土地や成長や原発の安全は、どこかで誰かが勝手に作ってくれる他人ごとになってしまいました。<br />
　それが「神話」の罪でした。</p>
<h3>単一の色に塗り固められる日本</h3>
<p>　そうして日本はふたたび、単一の色に塗り固められてしまったのです。美しい神話という単一の色に。</p>
<p>　成長も安全も総中流の平等も、素晴らしい僕らの努力の結果でした。でも僕らはそんなものを「神話」にしてしまうべきではなかったのです。<br />
　なぜなら努力の結果が神話になってしまった瞬間に、途中の努力はすべて忘れ去られることを約束されてしまったから。<br />
　本当は努力して作り上げた成果だったのに、神話となった瞬間にそれは神の御業となってしまったから。<br />
　本当は僕らの努力の成果だった神話は、神話となったことによって神の御業となりました。神の所有物となったのです。</p>
<p>　僕らは神を担ぎ、偉大な美しい神話を抱えていかなければ生きていけない民族なのでしょうか。絶対不可侵な社会の空気としての「神」、そしてその空気をもとにつくられていく壮大な幻想の物語としての「神話」。</p>
<p>　サンフランシスコ講和条約によって米軍が去った後、神の座を担ったのは僕らをあたたかい繭のようにくるんでくれた企業社会だったのかもしれません。<br />
　僕らは企業社会の中で単一の色に染められて、目の前の仕事にだけ邁進していれば、難しいことはすべて神が考えていてくれると思いました。<br />
　僕らはよけいな判断はしなくていい。判断は神がしてくれる。<br />
　僕らはよけいなリスクは負わなくていい。神が「絶対安全だよ」と太鼓判を押してくれている。<br />
　そう考えて、自分の色はとりあえずどこかにしまっておいて、神の単一の色に染まって心地よい午後の昼下がりを過ごすことを僕らは選んだのです。<br />
　そのようにして僕たちはずっと神話の中で生き続けてきたのです。</p>
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		<title>Chapter9</title>
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		<pubDate>Sun, 31 Jul 2011 01:21:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
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		<description><![CDATA[幽玄の文化、与えられた風景 　神話によって守られ、神話に彩られる僕たち日本人。 　その神話は、美しい日本文化を育てる器にもなってきました。戦前からずっと、神話の中で幽玄のように生きる僕たちの、はかなげで美しい文化。 　日本という国の成り立ち。それはアメリカのようなフロンティア精神の中で生み出された国とも、長い血で血を争う闘争から市民社会を立ち上げた西欧とも異なっています。 　それは、映画の描かれ方にも現れています。 　アメリカ映画は物語を描き、フランス映画は人間関係を描き、日本映画は風景を描くと言われます。 　アメリカ映画は完璧な物語の世界。 　物語という構造を徹底的に鍛え抜いて作り上げ、導入部からラストシーンまで破綻なく一本道を走り抜けられるような構成。これはアメリカという国が、西部劇の舞台になるような小さな西部の町の成り立ちのような精神を奥底に持っているからかもしれません。 　何もない平原に遠くからやってきて、ゼロから自分たちで町を作り上げる。ならず者がやってきたら、みんなで力を合わせ、保安官をもり立てて撃退する。そういう精神なのです。 　フランス映画は、関係性。 　夫婦、父と子、男と愛人、友人。そこに生まれる愛惜と憎悪をともに描くことによって、人間社会の重層性を浮かび上がらせる物語。 　フランスは近代に入るころ、古い貴族社会からブルジョワジーの台頭とともに、フランス革命とナポレオンの時代を経て共和制を作り上げ、血で血を争う暗闘を国を挙げて繰り広げてきました。だれが味方か、それともだれが明日の敵なのか。 　だからこの国は見た目の美しさとエレガンスの奥底に、移民と白人の対立に見るような凄まじい憎悪が立ちこめています。おたがいの関係性をつねに確認し続けなければ、安穏と暮らすことさえできない。そういう精神が底流に流れています。だからお互いのポジションを確認しあう関係性は、重要な意味を持っているのです。 風景を描く日本映画 　そして日本映画は、風景。 　ただ自然の風景というだけではありません。人の心や意思でさえも風景として描かれる日本映画。 「そうか、おしまいかのう」 　一九五三年。 　映画監督小津安二郎は、「東京物語」という名作を世に送り出しました。 　この静謐な映画は、戦争が終わったあとの景色の変化と別離を描きます。 　夏、広島県尾道に住む老夫婦が東京旅行に出かけます。東京に暮らす子供たちを訪ねるために。 　老夫婦を演じるのは笠智衆と東山千栄子。 　でも長男も長女も仕事が忙しく、両親をかまってくれません。ただひとり老夫婦をいたわってくれたのは、戦死した次男の妻だけでした。 　敗戦から八年。戦争によって変化した家族の風景。次男の戦死は徐々に過去へと遠ざかりつつあります。 　 　映画の終盤。原節子演じる次男昌二の妻は、義父笠智衆に訴えます。 「わたくし、ずるいんです。お父さまやお母さまが思ってらっしゃるほど、そういつもいつも昌二さんのことばかり考えてるわけじゃありません」 「ええんじゃよ、忘れてくれて」 　原節子は心の内をほとばしらせるように、でも静かに語り続けます。 「でもこのごろ、思い出さない日さえあるんです。忘れてる日が多いんです。わたくし、いつまでもこのままじゃいられないような気もするんです。このままこうして一人でいたら、いったいどうなるんだろうなんて……　夜中にふと考えたりすることがあるんです。一日一日が何事もなく過ぎてゆくのがとっても寂しいんです。どこか心の隅で、何かを待ってるんです。ずるいんです」 　戦死した夫を鎮魂しながら、ただひっそりと生きていこうと決意する妻の精神。その葛藤。 　戦後社会が音を立てて成長へと進んでいき、過去の犠牲が忘れ去られていく中で、あえて死者とともに生きていこうという決意。 　それは与えられた風景をただひたすら見つめ続けている、日本人のすぐれた美徳だったのかもしれません。 　人に強要するのではなく、人に強要されるのでもなく、死者を鎮魂する私たち。 　それが日本人の心のどこかにひっそりと生き続けているのです。 　東京から尾道へと戻った老夫婦。妻は長旅が原因で患い、死の床に伏してしまいます。 　東京から駆けつける子供たち。医者の息子が「お母さんは明日の朝まで持てばいいと思うんだ」というと、端正に正座した父は悲しそうにつぶやきます。「そうか、いけんのか」 「お母さん、六十八でしたね」 「ああ･･いけんのか」 「僕はそう思います」 &#8230; <a href="http://www.bokura.jp/2011/07/chapter9/">Continue reading <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div class="cnt"><img src="http://www.bokura.jp/wp-content/uploads/2011/07/img_chapter9.jpg" alt="神と神話の国、日本" title="神と神話の国、日本" width="431" height="560" class="alignnone size-full wp-image-68" unselectable="on" oncontextmenu="return false" galleryimg="no" /></div>
<h3>幽玄の文化、与えられた風景</h3>
<p>　神話によって守られ、神話に彩られる僕たち日本人。<br />
　その神話は、美しい日本文化を育てる器にもなってきました。戦前からずっと、神話の中で幽玄のように生きる僕たちの、はかなげで美しい文化。<br />
　日本という国の成り立ち。それはアメリカのようなフロンティア精神の中で生み出された国とも、長い血で血を争う闘争から市民社会を立ち上げた西欧とも異なっています。<br />
　それは、映画の描かれ方にも現れています。<br />
　アメリカ映画は物語を描き、フランス映画は人間関係を描き、日本映画は風景を描くと言われます。</p>
<p>　アメリカ映画は完璧な物語の世界。<br />
　物語という構造を徹底的に鍛え抜いて作り上げ、導入部からラストシーンまで破綻なく一本道を走り抜けられるような構成。これはアメリカという国が、西部劇の舞台になるような小さな西部の町の成り立ちのような精神を奥底に持っているからかもしれません。<br />
　何もない平原に遠くからやってきて、ゼロから自分たちで町を作り上げる。ならず者がやってきたら、みんなで力を合わせ、保安官をもり立てて撃退する。そういう精神なのです。</p>
<p>　フランス映画は、関係性。<br />
　夫婦、父と子、男と愛人、友人。そこに生まれる愛惜と憎悪をともに描くことによって、人間社会の重層性を浮かび上がらせる物語。<br />
　フランスは近代に入るころ、古い貴族社会からブルジョワジーの台頭とともに、フランス革命とナポレオンの時代を経て共和制を作り上げ、血で血を争う暗闘を国を挙げて繰り広げてきました。だれが味方か、それともだれが明日の敵なのか。<br />
　だからこの国は見た目の美しさとエレガンスの奥底に、移民と白人の対立に見るような凄まじい憎悪が立ちこめています。おたがいの関係性をつねに確認し続けなければ、安穏と暮らすことさえできない。そういう精神が底流に流れています。だからお互いのポジションを確認しあう関係性は、重要な意味を持っているのです。</p>
<h3>風景を描く日本映画</h3>
<p>　そして日本映画は、風景。<br />
　ただ自然の風景というだけではありません。人の心や意思でさえも風景として描かれる日本映画。</p>
<p>「そうか、おしまいかのう」</p>
<p>　一九五三年。<br />
　映画監督小津安二郎は、「東京物語」という名作を世に送り出しました。<br />
　この静謐な映画は、戦争が終わったあとの景色の変化と別離を描きます。<br />
　夏、広島県尾道に住む老夫婦が東京旅行に出かけます。東京に暮らす子供たちを訪ねるために。<br />
　老夫婦を演じるのは笠智衆と東山千栄子。<br />
　でも長男も長女も仕事が忙しく、両親をかまってくれません。ただひとり老夫婦をいたわってくれたのは、戦死した次男の妻だけでした。<br />
　敗戦から八年。戦争によって変化した家族の風景。次男の戦死は徐々に過去へと遠ざかりつつあります。<br />
　<br />
　映画の終盤。原節子演じる次男昌二の妻は、義父笠智衆に訴えます。<br />
「わたくし、ずるいんです。お父さまやお母さまが思ってらっしゃるほど、そういつもいつも昌二さんのことばかり考えてるわけじゃありません」<br />
「ええんじゃよ、忘れてくれて」<br />
　原節子は心の内をほとばしらせるように、でも静かに語り続けます。<br />
「でもこのごろ、思い出さない日さえあるんです。忘れてる日が多いんです。わたくし、いつまでもこのままじゃいられないような気もするんです。このままこうして一人でいたら、いったいどうなるんだろうなんて……　夜中にふと考えたりすることがあるんです。一日一日が何事もなく過ぎてゆくのがとっても寂しいんです。どこか心の隅で、何かを待ってるんです。ずるいんです」</p>
<p>　戦死した夫を鎮魂しながら、ただひっそりと生きていこうと決意する妻の精神。その葛藤。<br />
　戦後社会が音を立てて成長へと進んでいき、過去の犠牲が忘れ去られていく中で、あえて死者とともに生きていこうという決意。<br />
　それは与えられた風景をただひたすら見つめ続けている、日本人のすぐれた美徳だったのかもしれません。<br />
　人に強要するのではなく、人に強要されるのでもなく、死者を鎮魂する私たち。<br />
　それが日本人の心のどこかにひっそりと生き続けているのです。</p>
<p>　東京から尾道へと戻った老夫婦。妻は長旅が原因で患い、死の床に伏してしまいます。<br />
　東京から駆けつける子供たち。医者の息子が「お母さんは明日の朝まで持てばいいと思うんだ」というと、端正に正座した父は悲しそうにつぶやきます。「そうか、いけんのか」</p>
<p>「お母さん、六十八でしたね」<br />
「ああ･･いけんのか」<br />
「僕はそう思います」<br />
「そうか･･おしまいかのう」</p>
<h3>「東京物語」、そして尾道の夏</h3>
<p>　黙って頷く息子。妻の枕元へと歩み寄って、妻の寝顔をずっと見つめる父。<br />
　空が白みはじめ、尾道の港には明るい空が広がっていきます。<br />
　マストを並べる船。白壁の町並み。母を弔う子供たちから離れ、高台の神社でひとり夜明けを眺める父。<br />
　茫然と景色を眺めている父。<br />
　迎えにきた原節子。義父は彼女に向き合うでもなく、景色を眺めたままつぶやきます。<br />
「きれいな夜明けじゃった･･今日も暑うなるぞ」。</p>
<p>　やがて子供たちは東京へ帰っていきます。たったひとりの生活を続ける父。誰もいないがらんどうの部屋。縁側から近所の人に声をかけられ、父は微笑みながら返します。<br />
「ひとりになると急に日が長うなりますわい」<br />
　ひっそりとただ坐っている父。動くものはうちわと、蚊取り線香の煙だけ。カメラはふたたび尾道の景色へと変わり、穏やかな瀬戸内海をわたっていく汽船と、町並みの中を縫っていくバスを映し出します。</p>
<h3>僕らの国をとりまくこの濃密な空気</h3>
<p>　この映画で、登場人物たちの心の動きや感情はすべて風景に託されていて、手に届かない変えられないものとして描かれます。つまり目の前に起きているさまざまな社会問題や人間関係の葛藤、他人の苦しみ、さらには自分の痛み。こうしたすべてが「風景」なのです。つまりはどこか遠くにいて、僕たちを見守ってくれている「神」。そういう手に届かない存在から、自分たちがコントロールされ、でも守られているというそこはかとない安心感。<br />
　それこそが僕らの「風景」なのです。<br />
　僕らの生は神によって保証され、神話によって彩られ、そしてそういう自分ではどうにもならないけれども、でも守られているという世界が風景として僕たちの前に広がっている。</p>
<p>　それは僕たちの源流にある世界観なのかもしれません。<br />
　<br />
どんなに深く関わろうとしても、しかしどうしても関われない所与のものとして、われわれのまわりの風景はそこにあるということなのです。<br />
　だから日本文化には、向こう側に突き抜けられないことによる透明な悲しみが漂っていて、それがある種の幽玄的な感覚を生み出しているのです。</p>
<h3>僕たちにとっての「国」とは</h3>
<p>　僕たちにとって、国って何なのでしょうか。<br />
　アメリカのように自分でゼロから力を合わせて作り上げるものでなければ、欧州のように血で血を争う暗闘の果てにつかんだ血塗れた旗でもありませんでした。<br />
　僕たちにとって国というのは、「世間」「空気」のような言葉に代表されるなんだかわからない軟体動物のようなベタベタと、僕らを呑み込んで一色に塗り固めてしまう不可解な神話だったのです。<br />
　いったい何が敵なのかということさえ、そこでは見えてこない。<br />
　神の下では僕らは平等で、味方も敵もなく、だから議論や対立さえも生まれない。そういう不定形の空間。<br />
　僕らひとりひとりは決して自分自身の神になることはできず、だから僕らは僕らを自分自身で制御することさえできませんでした。<br />
　つねに僕らは神と神話の構造の中に組み込まれて、単なる「お客さん」でしかない。<br />
　そういうお客さんとして社会に生きるということは、だからそこにひとつのあきらめを抱えながら生きていくということなのです。</p>
<p>　でもだからこそ僕たち日本人はすぐれて洗練されていて、どこか軟弱で繊細な文化を生み出すことができたのかもしれません。社会の構造をゼロからつくるという大仕事に立ち向かえないから、軟弱で自己憐憫的な文化を楽しみ、それが洗練を生み出したのです。<br />
　僕らの祖国。この日本では、強い神話と洗練された軟弱な文化は、分断された別の場所に作り上げられてきました。<br />
　僕たちは文化を楽しみ、生活を楽しみながら、しかし政治や権力を「風景の向こう側」にある手の届かないものとしてとらえてきたのです。</p>
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		<title>Chapter10</title>
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		<pubDate>Sun, 31 Jul 2011 01:20:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
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		<description><![CDATA[僕たちは自分たちで神話を語ることを放棄してきた 　僕らの祖国。僕らのこの日本は、政治を「風景の向こう側」にある手の届かないものとしてとらえてきました。そして僕らのいる「こちら側」だけで軟弱で幽玄な文化を楽しみましょう、と。そして風景の向こう側にある政治的な「何か」は神が生み出す神話としてとらえ、言ってみればその神々に全部負ってもらって神話を語ってもらい、それによって僕らは自分たち自身で政治を語ることを放棄してしまおう、と。 　それこそがこの日本社会の神話の構造だったのです。 　僕たちの生活と文化。その生活と文化を支えてくれる神話という物語。その神話を支える神々。 　その神々に僕たちは絶対安全のような完璧を求め、安心を託してきました。僕たちひ弱な人間は完璧でも絶対でもないけれども、風景の向こう側に見えている神話の世界は完璧と絶対に彩られた堅固な世界である、と。 　だから僕たち自身は、安心してのんびりこの文化と生活を楽しんでいればいいんだ、と。 　それは現世にあらたかになった極楽浄土だったのかもしれません。 　僕たちは自分自身が輝かなくてもよかったのです。神話に頼り、神々の色に依っていればそれで安らかな日々を送ることを約束されていたのです。 　生ぬるく、責任はなく、何か起きたら神の声を求め、そして神話に頼る。すべては神話の中の一色の世界として。 　神が統治する国、この日本。 そして、単色の戦後を駆け抜け 　思い起こせば敗戦からの六十六年。この年月は、昼下がりの長い午睡のようでした。 　一九五〇年代、建設の槌音がひびく高度経済成長。社会は右肩上がりに成長を続けていて、晴れやかで高揚した気分がずっと僕らの心を満たしていました。 　「一億層中流」ということばが言われるようになったのは、戦後三〇年が経った一九七〇年代の終わりごろからです。そのころに戦後社会は完成していたのでしょう。 　そのころの幸せな日本は、パステルカラー一色に染められていました。キャンディーズが「パステルカラーの街に出かけませんか」と歌ったのは、一九七七年のことです。 　戦後社会を完成させた日本は、八〇年代に入ってバブルの狂騒へと走り出していきます。株価は急上昇し、ブランドのバッグや化粧品が飛ぶように売れ、皆が背伸びして消費に走りました。街には蛍光色のボディコンシャスやワインレッドのスーツがあふれ、文化は爛熟していきました。 　だがそうした時代はすでにぼんやりとした霧の中へと消えて行ってしまっています。 　思い出せば、一九九五年の阪神大震災とオウム真理教事件が、時代の転換点だったのでしょう。 　日本はこのころからゆるく衰退していきました。 　希望は少しずつ失われ、でも生活は安定していた日々。社会学者の宮台真司さんはこの日々を「終わりなき日常」と呼びました。僕たちは身の回りの小さな空間にだけよろこびを見いだし、小さく小さく暮らそうとしていたのです。 　一九九七年、神戸で子供を殺した十四歳の少年は、新聞社に送りつけてきた犯行声明文の中にこう書きました。 「透明な存在であり続けるボク」 　なにか不安だったけれども、しかしその不安のありかはまだ曖昧として見えてこなかった九〇年代。荒野にひとり立っていて、冷たい風が通り抜けていくような心細さを感じていた日々。 　透明な時代でした。 嵐の吹きすさぶゼロ年代、日本 　しかし透明な日々も、永くは続きませんでした。 　二十一世紀に入るころから、風は冷たく変わっていきます。 　日本は灰色の中へと停滞しました。人々は貧しくなり、若者は希望を失い、先行きのない不安をだれもが抱えるようになっていたのです。 　ただ僕たちは堪え忍ぶしかない、これからやってくるであろう酷い未来をただ先送りしていくしかない。灰色の嵐が吹きすさぶ岬で、外套の襟を立ててうずくまり、そう考えるしかほかに手立てはなかったのです。 　失われた希望。ばらばらに分断された人々の連帯。孤独に立ちすくむ人たち。 　灰色の絵の具で濃く塗りたくられた背景に、日本は沈み込んでいったのです。 　多様な色は、二度と取り戻されませんでした。そして気がつけば、僕たちは灰色一色の世界に入り込んでしまっていたのです。 　思い返せば一九四五年、あの輝くようにまぶしい瓦礫の夏。大日本帝国という神が立ち去った後、そこには進駐軍という新たな神がやってきて君臨しました。 　でも僕たちの二〇一一年には、もう神はいません。神話もすべて終わってしまいました。 　三月十一日のあのできごと。そしてそれに続く長い苦難と災厄が、すべての神と神話を押し流し、潰し、どこかへと追いやってしまったのです。 　もう一度、戦後の神話の数々を思い出してみます。 「銀行不倒神話」 「土地神話」 「成長神話」 「総中流神話」 &#8230; <a href="http://www.bokura.jp/2011/07/chapter10/">Continue reading <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div class="cnt"><img src="http://www.bokura.jp/wp-content/uploads/2011/07/img_chapter10.jpg" alt="頼れる「神話」は消え去った" title="頼れる「神話」は消え去った" width="560" height="431" class="alignnone size-full wp-image-71" unselectable="on" oncontextmenu="return false" galleryimg="no" /></div>
<h3>僕たちは自分たちで神話を語ることを放棄してきた</h3>
<p>　僕らの祖国。僕らのこの日本は、政治を「風景の向こう側」にある手の届かないものとしてとらえてきました。そして僕らのいる「こちら側」だけで軟弱で幽玄な文化を楽しみましょう、と。そして風景の向こう側にある政治的な「何か」は神が生み出す神話としてとらえ、言ってみればその神々に全部負ってもらって神話を語ってもらい、それによって僕らは自分たち自身で政治を語ることを放棄してしまおう、と。</p>
<p>　それこそがこの日本社会の神話の構造だったのです。</p>
<p>　僕たちの生活と文化。その生活と文化を支えてくれる神話という物語。その神話を支える神々。<br />
　その神々に僕たちは絶対安全のような完璧を求め、安心を託してきました。僕たちひ弱な人間は完璧でも絶対でもないけれども、風景の向こう側に見えている神話の世界は完璧と絶対に彩られた堅固な世界である、と。<br />
　だから僕たち自身は、安心してのんびりこの文化と生活を楽しんでいればいいんだ、と。<br />
　それは現世にあらたかになった極楽浄土だったのかもしれません。<br />
　僕たちは自分自身が輝かなくてもよかったのです。神話に頼り、神々の色に依っていればそれで安らかな日々を送ることを約束されていたのです。<br />
　生ぬるく、責任はなく、何か起きたら神の声を求め、そして神話に頼る。すべては神話の中の一色の世界として。<br />
　神が統治する国、この日本。</p>
<h3>そして、単色の戦後を駆け抜け</h3>
<p>　思い起こせば敗戦からの六十六年。この年月は、昼下がりの長い午睡のようでした。<br />
　一九五〇年代、建設の槌音がひびく高度経済成長。社会は右肩上がりに成長を続けていて、晴れやかで高揚した気分がずっと僕らの心を満たしていました。<br />
　「一億層中流」ということばが言われるようになったのは、戦後三〇年が経った一九七〇年代の終わりごろからです。そのころに戦後社会は完成していたのでしょう。<br />
　そのころの幸せな日本は、パステルカラー一色に染められていました。キャンディーズが「パステルカラーの街に出かけませんか」と歌ったのは、一九七七年のことです。<br />
　戦後社会を完成させた日本は、八〇年代に入ってバブルの狂騒へと走り出していきます。株価は急上昇し、ブランドのバッグや化粧品が飛ぶように売れ、皆が背伸びして消費に走りました。街には蛍光色のボディコンシャスやワインレッドのスーツがあふれ、文化は爛熟していきました。</p>
<p>　だがそうした時代はすでにぼんやりとした霧の中へと消えて行ってしまっています。<br />
　思い出せば、一九九五年の阪神大震災とオウム真理教事件が、時代の転換点だったのでしょう。<br />
　日本はこのころからゆるく衰退していきました。<br />
　希望は少しずつ失われ、でも生活は安定していた日々。社会学者の宮台真司さんはこの日々を「終わりなき日常」と呼びました。僕たちは身の回りの小さな空間にだけよろこびを見いだし、小さく小さく暮らそうとしていたのです。<br />
　一九九七年、神戸で子供を殺した十四歳の少年は、新聞社に送りつけてきた犯行声明文の中にこう書きました。<br />
「透明な存在であり続けるボク」<br />
　なにか不安だったけれども、しかしその不安のありかはまだ曖昧として見えてこなかった九〇年代。荒野にひとり立っていて、冷たい風が通り抜けていくような心細さを感じていた日々。<br />
　透明な時代でした。</p>
<h3>嵐の吹きすさぶゼロ年代、日本</h3>
<p>　しかし透明な日々も、永くは続きませんでした。<br />
　二十一世紀に入るころから、風は冷たく変わっていきます。<br />
　日本は灰色の中へと停滞しました。人々は貧しくなり、若者は希望を失い、先行きのない不安をだれもが抱えるようになっていたのです。<br />
　ただ僕たちは堪え忍ぶしかない、これからやってくるであろう酷い未来をただ先送りしていくしかない。灰色の嵐が吹きすさぶ岬で、外套の襟を立ててうずくまり、そう考えるしかほかに手立てはなかったのです。<br />
　失われた希望。ばらばらに分断された人々の連帯。孤独に立ちすくむ人たち。<br />
　灰色の絵の具で濃く塗りたくられた背景に、日本は沈み込んでいったのです。<br />
　多様な色は、二度と取り戻されませんでした。そして気がつけば、僕たちは灰色一色の世界に入り込んでしまっていたのです。<br />
　思い返せば一九四五年、あの輝くようにまぶしい瓦礫の夏。大日本帝国という神が立ち去った後、そこには進駐軍という新たな神がやってきて君臨しました。<br />
　でも僕たちの二〇一一年には、もう神はいません。神話もすべて終わってしまいました。<br />
　三月十一日のあのできごと。そしてそれに続く長い苦難と災厄が、すべての神と神話を押し流し、潰し、どこかへと追いやってしまったのです。</p>
<p>　もう一度、戦後の神話の数々を思い出してみます。</p>
<p>「銀行不倒神話」<br />
「土地神話」<br />
「成長神話」<br />
「総中流神話」<br />
「検察正義神話」<br />
「原発安全神話」<br />
「持ち家神話」<br />
「ものづくり神話」</p>
<p>　灰色の波に覆われていったゼロ年代、どの神話も生き残ることはできませんでした。<br />
　もはや僕たちが頼れる神も神話もどこにもいないのです。</p>
<h3>神も神話も消えたこの祖国</h3>
<p>　大東亜共栄圏の希望を僕たちに見せてくれた大日本帝国。<br />
　いきなりどこかから現れて、大量の物資とチョコレートで僕たちを助けてくれた米軍。<br />
　高度経済成長を力強く打ち立て、バブルの夢を見させてくれた企業社会。<br />
　どれももう姿を消してしまい、二度と戻ってくることはありません。<br />
　神話もすべて失われてしまいました。<br />
　僕たちの前には、頼む神もすがる神話もなくなってしまったのです。<br />
　神に「安心ですよね？」「大丈夫ですよね？」「お任せしてもいいですね？」と呼びかけても、その声は虚空の中に吸い込まれるだけで、返事は決して返ってきません。聞こえるのは自分たちの声のこだまだけでしょう。<br />
　僕らは混沌のなかへと放り込まれています。一体感の幻想は失われ、ばらばらに漂流するよるべない私たち。<br />
　ただ目の前には、茫洋とした荒野が広がっているばかり。瓦礫の上に広がるのは青空ではなく、どんよりとした暗雲が粉雪を降らせているばかりです。</p>
<p>　これから、長い苦難の日が続くでしょう。<br />
　福島の海岸で発し続ける熱は、いつ消えるのかもわからない。いつもう一度、大地が震えるのかもわからない。きっと僕たちの子供の世代は、今よりも貧しくなっているでしょう。<br />
　安全で安心な繭もなくなってしまって、つねに不安と危険の中で暮らしていかなければならなくなりました。</p>
<p>　でももうだれにも頼れない。僕らは自分自身で、危険と不安に向き合っていかなければならないのです。神話の中で、同じ色に染められてうたたねをする日々は、もう遠く過ぎ去ってしまったのです。</p>
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