Epilogue
本書の絵はすべて松尾たいこが描いています。
いまここに、大きな波と富士山を描いた彼女の絵があります。葛飾北斎の富嶽三十六景にある通称「浪裏富士」から心象を受け継いだ作品です。
この絵が持つ途方もない明るさと、それと相反するかのような異形の自然への畏敬。この絵には、いくつもの感覚が、層となって重ねられています。
富士山を呑み込もうとする大きな波。
苛烈で圧倒的な自然の力。
厳しさと美しさの同居。
その異形さが、ポップな可愛らしさへと一瞬で転換してしまうことへの驚き。
そしてどこまでも明るい光を帯びる、絵筆の眩しさ。
そう僕たちの生きている世界は、さまざまな色、さまざまな層の積み重なりから成り立っている。
二〇〇一年、世界貿易センターに二機の旅客機が突っ込んだ事件がありました。僕はその少し前に彼女と出会い、しばらくして一緒に暮らすようになりました。
そしてこの十年、終末的な灰色の日本の風景の中をともに歩いてきました。
彼女がイラストレーターの仕事を始めた一九九〇年代なかばの風景画は、どちらかと言えば乾いた色調を帯びています。人影はなく、どこまでも続く透明な世界は、ただそこに凍結されているようにみえる。
でも彼女の絵はその後、日本が灰色の終末を迎えていったのとは裏腹に、すごい勢いで明るさを増していきました。人影がなかった風景には後ろを向いた男の子や女の子が現れ、そして彼や彼女たちはいつしか顔を持つようになっていきます。
気がつけば子供たちの瞳には光が入り、そして明るい表情がそこにやってくるようになりました。
そう、それはまるで無表情な人間の単色を一枚ずつ、剥がしてまごころを見せていくように。
色を少しずつをめくっていけば、ひょっとしたら自分が経験した別の人生がそこにはあったのかもしれません。
ひょっとしたら私たちが別の生を歩んだかもしれない、もうひとつの世界。
あるいは私たちが生まれなかったかもしれない、もっと特別な異世界。
さまざまな色をめくっていけば、そういう異世界さえもがわれわれの眼前に立ち上がってくる。松尾たいこが描いているのは、その先に見えるものなのです。
僕らの目には、この世界は単色にしか見えていない。それは時には空の青だったり、パステルカラーだったり、そして透明だったり、灰色だったりする。でもたぶん、彼女の目にはその単色の中に隠されているレイヤーごとのさまざまな色が見えている。
僕らの生は、いくつもの色から成り立っている。薄い膜を何枚も何枚も重ねていって、気がつけばその重なり具合を気づかないほどに。
美しい自然の薄い皮の下には、厳しい自然が。
明るい都市生活の薄い皮膜のような層の下には、別の層が。
色をめくっていけば、さまざまな異質さが実は同居していることがわかるのです。
美しい海と、禍々しい海。
人のまごころと、人の裏切り。
リアルに見える世界と、リアルではない異世界。
希望に満ちた道と、終末へと向かう黙示録。
三月十一日。
あの日に起きたできごとは、僕らの社会の見えない色をたくさん可視化してしまいました。苦痛の色は想像もできないほどでした。でも一方で、失われたと思っていた社会の連帯を皆がもう一度信じられるようになったという驚くべき体験は、きっと多くの日本人の心に灯り続けるでしょう。
灰色の単色に見えていた僕らの世界。
その単色をあまりにも暴力的に剥ぎ取り、多くの苦痛とそして少しばかりの希望を残していった3.11。
でもそのかたわらで、彼女は僕らの世界の色を一枚一枚、小さな絵筆でていねいにはぎとって、机の上に並べています。
ひっそりと、明るい日のふりそそぐ小さな部屋の中で。
