Chapter8

果たされなかった責任
「だます人」「だまされる人」という単純な区分けではなく、ひとりひとりの当事者としてのあり方を自分で見つめ直すということ。それが太平洋戦争が終わったとき、僕らに求められていた行動だったはずです。
でも残念ながら、戦後の日本でその責任は最後まで果たされませんでした。
ひとりひとりの色は取り戻されず、「だまされた人」が「だました人」たちを声高に非難し、そうして追放され、戦時下の当事者としての責任はあいまいなままで戦後の長い年月が過ぎていってしまったのです。
作家三島由紀夫はその生ぬるさから逃れようとし、その生ぬるい単色に色を取り戻そうと願いました。しかし彼は最後はみずから破滅に向かって進んでいき、戦後社会に叛旗を翻したあげくに自決します。
ある早春の朝、色は取り戻される
三島の願いは、一九五九年の「鏡子の家」の最後に描かれています。
目の前に望む樹海の色を失い、絵が描けなくなった日本画家の夏雄。三島はこの若者を、物語の最後で美しく立ち上がらせているのです。
あの絶望的な経験から長い年月が経ったある早春の朝。
夏雄は目覚めると、枕もとに一本の水仙が横たえられているのに気づきます。
その花は清冽で汚れひとつありませんでした。その水仙の花は、夏雄に鮮やかに色を取り戻させるのです。
「僕は片手に水仙を持ったまま寝床から立って、久しくあけない窓をあけに行った。すると早春の日ざしの中に、今年はじめての和やかな風の運んでくる、ものの匂いや音のかずかずが、俄かに僕の耳を領した。
家は高台になっているので、遠いデパートやビル街やそこに浮かぶ広告気球や、高架線の上を光って走る電車までがはるかに見える。風の加減で、雑多な物音もまじってきこえる。すべてが今朝は洗われているように見える」
僕たち自身の色を、僕たち自身で取り戻すということ。
誰かに頼らず、誰かに依拠せず、みずからの責任で自分だけの色に自分を染め上げていくということ。
戦争に負け、大日本帝国という神話が終焉を迎えたその日、日本人はそう決意したはずでした。安吾が「堕落論」に書いたように、
「これからは美しい美学に頼らず生きていくのだ」
と。
しかし戦後の復興と高度経済成長、そして世界に冠たる日本企業の復活は、僕たちの祖国に再び別の神話をつくりだしていってしまいます。神話のなくなった先に、神話に頼らない新たな「堕落」した人間の社会を——という安吾の願いは、かないませんでした。
高度成長の輝き
一九五〇年。
朝鮮戦争が始まります。
この戦争で、日本はいっきに経済を回復させていきます。戦争は戦地ではない後背地の経済を活性化させるというのは昔から言われていたことですが、これが見事に当てはまりました。戦争で使うさまざまな武器弾薬、軍服、鋼材といったさまざまな物資が日本から輸出されました。それまで焼け跡のまま麻痺していた日本人は、この軍需物資の製造のために国中を挙げて全力を尽くし、そしてこれが日本の経済を見事に復活させることになりました。一気に好景気へとなだれ込んでいったのです。
これによって戦後の復興はみごとに行われ、そして五〇年代後半からの高度経済成長へと弾みをつけていくことができたのでした。
高度成長。この大がかりな神話は僕たちの社会に新たな勝利体験を与え、晴れやかな長い長い午後がその時から始まったのです。
振り返れば、米軍は、僕たちにとっての神々だったのかもしれません。すべてを任せておけば、よきにはからってくれる存在。「絶対安全」や「豊かな生活」をもたらし、精神の健全を守ってくれる存在。
戦前の大日本帝国という神。その神はしかし敗戦とともに退場し、そしてその後にやってきたのが米軍という新しい神でした。
紅潮した頬と良い体格をしたパリッとした制服姿の神は、僕たちに戦後の物資を与え、朝鮮戦争特需とその後の高度経済成長という新しい神話をもたらしたのです。
神話の国、戦後日本
そうしてこの長い午後の間に、日本はふたたび神話の国となっていきました。その神話はかつての大日本帝国のような勇ましい軍神の神話ではありません。新たな経済と産業の神話の時代が幕を開けたのです。
「銀行不倒神話」
「土地神話」
「成長神話」
「総中流神話」
「検察正義神話」
「原発安全神話」
「持ち家神話」
「ものづくり神話」
僕らが作り出した神話。
それは僕らの生み出した輝かしい成果でした。でもその成果は神話となることで、再び現実から乖離していきます。
本当は、僕らはものづくりや土地や成長や原発の安全を「神話」として扱うべきではありませんでした。しかしそこに「神話」という詩的な言葉を与えてしまったがゆえに、それらは絶対的な存在に変身してしまう。
それはつねに検証し、つねに鍛え直し、つねに錬っていく「僕ら自身の努力」ではなくなってしまったのです。神話となった土地や成長や原発の安全は、どこかで誰かが勝手に作ってくれる他人ごとになってしまいました。
それが「神話」の罪でした。
単一の色に塗り固められる日本
そうして日本はふたたび、単一の色に塗り固められてしまったのです。美しい神話という単一の色に。
成長も安全も総中流の平等も、素晴らしい僕らの努力の結果でした。でも僕らはそんなものを「神話」にしてしまうべきではなかったのです。
なぜなら努力の結果が神話になってしまった瞬間に、途中の努力はすべて忘れ去られることを約束されてしまったから。
本当は努力して作り上げた成果だったのに、神話となった瞬間にそれは神の御業となってしまったから。
本当は僕らの努力の成果だった神話は、神話となったことによって神の御業となりました。神の所有物となったのです。
僕らは神を担ぎ、偉大な美しい神話を抱えていかなければ生きていけない民族なのでしょうか。絶対不可侵な社会の空気としての「神」、そしてその空気をもとにつくられていく壮大な幻想の物語としての「神話」。
サンフランシスコ講和条約によって米軍が去った後、神の座を担ったのは僕らをあたたかい繭のようにくるんでくれた企業社会だったのかもしれません。
僕らは企業社会の中で単一の色に染められて、目の前の仕事にだけ邁進していれば、難しいことはすべて神が考えていてくれると思いました。
僕らはよけいな判断はしなくていい。判断は神がしてくれる。
僕らはよけいなリスクは負わなくていい。神が「絶対安全だよ」と太鼓判を押してくれている。
そう考えて、自分の色はとりあえずどこかにしまっておいて、神の単一の色に染まって心地よい午後の昼下がりを過ごすことを僕らは選んだのです。
そのようにして僕たちはずっと神話の中で生き続けてきたのです。

佐々木 俊尚
松尾 たいこ