Chapter2

「明るい気持ちになんてなれない」
東京大空襲をからくも生き延びた並木路子さん。彼女は遠い親戚の家に身を寄せ、その日から行方不明の母を捜し続けます。行けども行けどもだだっぴろい焼け野原。
そして三日目、警察から母らしき遺体が見つかったと連絡があります。
増上寺にずらりと並べられたお棺。こんなにもたくさんの人が亡くなったのかーー。お棺の中の母は大きな傷もなく、生きていたころの姿のままで横たわっていました。
母は水中に飛び込んだ瞬間に心臓麻痺を起こして亡くなったと知らされました。母がただひとつ身につけていたのは、腹巻きの中に入れていた並木さんの給料袋三通。それを知らされたとき、涙がわぁっと出てきて止まらなくなります。
「やっぱりお母さんだなあ、私から渡したお金を大事に持っていてくれて。これを持っていなかったら、私はいつまでもお母さんがどうなったかわからず、お母さんもそのまま骨になっていたかもしれない。よかったなあ……」
でも運命は過酷です。次兄を失い、母を失い、そして南方に出ていた父までもが消息を絶ちました。
父の行方がわかったのは、戦後になってからです。パラオから日本に戻る帰還船が魚雷に沈没させられて、それっきりだったといいます。
だから父の命日はわかりません。並木さんは、母の命日を同時に父の命日として弔うことにしたのでした。
そうしてようやく戦争が終わります。彼女に運が向いたのは、戦後最初に制作された映画のヒロインに抜擢され、主題歌を歌ったことでした。
映画のタイトルは「そよかぜ」。そして主題歌は、「リンゴの唄」。
「そよかぜ」は、劇場の手伝いをしている人気者の少女が、スターへの階段を歩み始めるという明るく素朴な映画です。戦争でうちひしがれている日本人に、少しでも未来に希望を持ってもらえたらという願いから作られた作品だったのです。
配給のフィルムは乏しく、封切りの時にはわずか二本のフィルムしかプリントできませんでした。このわずかなプリントを分け合うようにして、椅子も焼けてなくなってしまったような映画館でみんなこの映画を見たのです。
でも明るく素朴な映画だったからといって、スタッフやキャストがただ明るい気持ちで映画を製作できたわけではありません。戦争が終わったばかりで、当時そんな気持ちになれる日本人などほとんどいなかったでしょう。
実際には、呆然としてしまう精神を押し隠すように必死に明るい映画を作ろうとしていたのです。
撮影中、佐々木康監督は並木さんに「もっと明るく演技を」「明るく」としょっちゅう繰り返していました。
でも彼女も、そんな明るい気持ちにはとうていなれませんでした。母を空襲で亡くしたのは自分がよく見てあげられなかったせいだと何かにつけてそのことが思い出され、彼女は自分を責めていました。父も兄もその時期はまだ生死不明でした。そんな中で、なんとか明るく歌おうとしたリンゴの唄。
そこには単純な明るさではない別の色が入り込んでしまうのは、当然のことです。
明るくないのに、明るくなろう明るくなろうと思う。その歌手としての強い意志と、でもその裏側にひそんでいる自責の念、そして挫折感。
でもそういう二面性が、「リンゴの唄」に透明な芯のようなものを与え、それがきっと多くの人々の心に届いたのではないでしょうか。
「青い山脈」、焼き栗の豊かな夜
「焼け跡」と呼ばれたこの時代は、音楽の流行でもきわめて特異な時期でした。
なぜか明るい唄ばかりが流行ったのです。
「リンゴの唄」をはじめとして「銀座カンカン娘」「青い山脈」「トンコ節」「薔薇を召しませ」。今となっては古い楽曲ばかりで、覚えていらっしゃる方はかなりのご年配の方だけでしょう。僕ももちろんまだ生まれていません。
「銀座カンカン娘」は高峰秀子と笠置シヅ子が出演した四九年の映画の主題歌。「トンコ節」は同じ都市の久保幸江さんの流行歌です。
そして「青い山脈」は作家石坂洋次郎のベストセラー青春小説。これも四九年に原節子と池部良主演で映画化されました。戦後間もない港町を舞台に、あらたな民主教育の中から育ってきた新しい若者たちの恋愛のありようを眩しすぎるばかりのタッチで描いています。
女学校に通う女子生徒。進歩的な大学浪人の青年。生徒たちの味方をする新進の女性教師。そして彼女を慕う若い校医。
映画では青い山脈を背景に、自転車をこぐ主人公たちの印象的なラストシーンでしたが、小説では最後は秋の静かな夜で物語は終わっていきます。
土曜日の夜。
夕方から雨がしとしとと降り続け、それがあたりの雑音を消してしまって、ひきこまれるように静かな晩。主人公たちは、校医の沼田の邸宅に集まります。手風琴を鳴らし、オルガンを弾き、それにあわせてダンスを踊る若者たち。
沼田は緊張しながら、女性教師の雪子に声をかけます。「ちょっと御用談したいことがあるんですが、二階のぼくの書斎まで来てくださいますか?」
「僕は貴女と結婚したいと思うんですけど、貴女の意志はどうでしょう?」
額の脂汗をこすりながら、思いきって打ち明ける沼田。雪子は胸の骨がポクンと鳴るほどはげしく深い歓びを感じますが、しかしただその申し出を鵜のみにするのではなく、こう宣言するのです。
「貴方、鉛筆を持っていますか。これから私の希望条件を申し上げますから、心覚えに書きとめて置いてください」
そして二人は、「第一に、夫婦は互いに尊敬し合うこと」というような決め事を、紙に大きな字で書いて寝室の壁に貼っておこうと約束するのです。
民主的な恋愛、民主的な結婚。対等な男女関係。そういう牧歌的な明るい未来が、石坂洋次郎のこの小説からはあふれるように開いていました。
結婚後の人生の設計を雪子にリードされっぱなしの沼田は、うめくようにこう言います。
「ぼくは結婚前の男女の会話が、こんなに散文的なものだとは思いませんでしたよ」
「では、どんな風な——」
「星が美しいとか、花が咲いたとか、ホラ、よくあるじゃありませんか。やさしい、きれいな男女の会話がね」
「貴方、私に結婚の申込みをしたことを後悔してるんじゃございませんか?」
「いや、そんなことがあるもんですか。ぼくは死んだって貴女を離しませんよ」
「・・それは貴女が仰言るように、外国の恋愛小説などを読んでおりますと、豊かな、素晴らしい恋人同士の会話が出て来たりしますけど、私共の社会生活はまだそれほど成熟しておらず、ずっと幼稚な段階にあるのだと思いますわ。その地盤が出来ておらないのに、真似事のきれいな会話で飾り立てるのは、かえって惨めで、滑稽なことではないでしょうか」
日本人はいまはまだ未成熟で幼稚だけれど、これから少しずついろんなことを学んで成長していくのだ。そういう青くさいほどの気負いが、この会話からは匂い立ってきています。
その未来の成熟を予感させるように、小説は次のような一節で完結するのです。
「大地には夜の雨がシトシトと降りそそぎ、窓の中には、焼グリの香ばしい匂いがプンと漂っていた」
「トンコ節」と同じ西条八十が作詞し、「銀座カンカン娘」の服部良一が作曲した映画「青い山脈」のテーマ曲は、その青い気負いが存分に表現されています。「青い山脈 雪割桜 空のはて 今日もわれらの 夢を呼ぶ」
「虚脱」という流行語
焼け跡の楽曲で語られた空気感はいずれも朗らかに明るく、メロディも脳天気なまでに心地よい。戦前から戦後まで、日本の流行歌の多くはどちらかといえば湿っぽい情念を歌い上げるものが多かったのですが、この時期だけはそういう音楽はあまり多くは流行らなかった。
音楽評論家の伊藤強さんは、こう言っていますー日本人が日本的な心情を忘れていた時代だった、と。
喪失感と絶望。その絶望の先に生まれてくる希望を、多くの人が恋い焦がれるように熱望していたのでしょう。
日本の戦後史研究で知られるアメリカの歴史家ジョン・ダワーさんは、「虚脱」というのは戦後の新しい言葉だったと指摘しています。
戦争中、ずっと「死」に直面していた日本人。最後は本土決戦だと考え、いつその最悪の事態がやってくるのかと恐れ続けていました。
全員が玉砕するのだと覚悟していた日本人。美しい死の覚悟はできなくても、あきらめて死ぬしかないという心境にあった人もいたでしょう。
無数の温度差はあっても、そこには「最後には僕らは死ぬんだ」という一様な色で覆われていたのです。
その緊張の糸が、天皇陛下の玉音放送によってプツリと切れたのです。
その時、日本人の心の中で何が起きたのでしょうか。
玉音放送を聞いて、信じられない事態にショックを受けた私たち。
その直後、「もう死ななくてもいいんだ」という大きな安堵。
でもその後に、疲労と絶望。
こうした心の崩壊は非常に深い傷で、しかも多くの日本人が同じような体験をしたのです。だからそれまでは医学の専門用語だった「虚脱」という言葉が、多くの人に使われるようになったといいます。もともとは入院患者の肉体的、感動的な衰弱を示す臨床医学の専門用語が、民衆全体の沈滞感や喪失感を意味することばとして広く使われるようになったのです。
「リンゴの唄」で歌われた青空。その透き通るようなきれいな色の裏側には、疲労と絶望、安堵と落胆がないまぜになった虚脱があったのです。

佐々木 俊尚
松尾 たいこ