僕らの神話が終わった日 ─ そして希望の物語が始まる

Chapter12

いまは心は届かなくても

「みんなが」で語れる時代は終わった

 かつて僕らは、向こう側にいる絶対的な神が自分を守ってくれると信じていたから、安心して傍観者的に世の中を眺めることができました。
 だから僕らは傍観者として、社会を批判する時も、だれかの目線を借りていました。

「僕はいいけど、皆はそれを許さないと思うよ」
「ほら、おじさんに怒られるわよ」
「それを被害者の遺族の前で言えますか?」

 絶対的な神に守られた絶対的な傍観者だったからこそ、誰かの目線を勝手に借りて、さも自分が社会や被害者や弱者の代弁者のようにして語ることができたのです。
 でもそうやって語る僕らは、決して当事者本人じゃなかった。でも当事者じゃないからこそ、逆に安心して「みんなが非難してるぞ!」と言い放つことができたのです。

 絶対的な神が、僕らを守ってくれる。守られなくなったのは、その絶対的な神が暗黒面に転んだからだ。じゃあその暗黒面に転んだ神を、僕らは叩きまくるしかない。

 そんなふうに僕らは悪を叩き、新しい神を期待し、そしてまたその新しい神の暗黒面への転向を恨んできました。
 そうやって過ごしてきたこの六十六年。
 でもそんなふうに神の首をすげ替え続けたって、何も変わりはしません。

神という幻想を脱ぎ捨てる時

 そもそも神なんて存在しないのです。
 僕らが勝手に自分たちの幻想の中で、そういう神をまつりあげたのにすぎなかったのです。
 振り返れば敗戦の眩しい瓦礫の本当の色が失われ、生ぬるい戦後の高度経済成長が始まったころから、僕らはそういう幻想を守り続けてきたのかもしれません。
 一九五五年に自民党と社会党の構図が成立し、「とりあえず野党は与党を批判しておけば大丈夫」という風潮に流れ、そしてそれは高度経済成長の富によって安穏と支えられてきました。それは安穏としたままごとのような遊びだったのですが、その遊びがいつしか僕らの社会を硬直したものに変えてしまっていたのです。
 この社会を生み出したのは、どこか絶対的な神でなければ、絶対的な悪でもありません。
「絶対的な神」
「どこかの悪人」
 どちらもしょせんは幻想にすぎないのです。そういう神や悪は、実は僕たちそのものなのです。僕たちの中にいるのです。
 神と悪と、そして無辜の傍観者たち。そういう構図をこれ以上続けても、もう何もそこには生まれてこないでしょう。私たちの前には、ただ渺々(びょうびょう)とした荒野が広がっているばかりです。

 でも僕らはそろそろ、自分の言葉で語らなければなりません。勝手に人の言葉を代弁するのではなく、自分自身の言葉で。
 神なき後のこの国では、僕らは自分自身が物語の書き手になるしかないのです。もう僕らを代弁して物語を書いてくれる人は、誰もいないのです。
 だから僕たちは、強い当事者になるのです。傍観者ではない、当事者に。それは今、ひとりひとりが求められていることなのです。
 僕らは無数の立ち位置を持っていて、無数の温度差の違いを感じながら生きている。
 だったらそれぞれに当事者としての意味がある。
 それぞれの立ち位置から語るべき言葉を持っている。
 僕らはこれから、薄い地面の下にひそんでいる光を掘り出しましょう。あの一九四五年の輝かしい瓦礫のように。
 僕たちは三月十一日に恐ろしい瓦礫の山に打ちのめされ、震えました。そしてその後に続く苦しみの放射能の恐怖にも。しかしそうした畏怖と震撼からこそ、ひょっとしたら新しい世界は生まれるのかもしれない。
 八月十五日の瓦礫に光を見いだした若い三島由紀夫のように。
 それを信じることでしか、もう僕らは生き延びられないのです。この経済が停滞し、苦難が続き、何も信じられなくなってしまった終末の日本で。
 もう一度、物語を生み出していくしかないのです。
 きっとそこには、さまざまな色が見え始めるでしょう。

僕らは無数の色の物語でつながる

 僕たちの無数の物語は無数の色を持ち、グラデーションを描いて細く広くつながっている。
 その細いつながりを僕らは不安に感じるかもしれません。昔のような一体感はもう得られません。ひとびとが描く無数の物語は、互いの色の違いを鮮明にするばかりで、その違いの大きさに僕らは立ちくらみを起こすばかりかもかもしれない。
 でも僕らのこれからの日本は、そういう細いつながりの中で作られていくのです。
 遠くの人たちと遠くでつながっている。つながっているけれども、一体じゃない。たぶんもっと細い、か細いつながり。
 ひそかに遠く、遠い宇宙の彼方から届いてくるかすかな電波のように。

 「フィッシュストーリー」という日本映画があります。伊坂幸太郎さんの小説を映画化した二〇〇九年の作品。
 物語の冒頭は、近未来の日本。彗星の衝突まであと五時間。
 テレビは緊急特番を流し続けています。
 「津波の発生が予想されます。繰り返します。ただちに高所に避難してください。沿岸部では最大一〇〇メートル以上の巨大な津波が予想されます」
 表示される日本地図。すべての沿岸部に大津波警報が出ています。
 滅亡を間近にして、人々はすでに街から姿を消しています。 すべてのものがそのまま放置され、ゴミが散乱する終末の光景。その中で、なぜか一軒だけいつもと同じように空いているレコード店。店の中では、店長と客がまるで日常のようにマニアックな音楽について会話しています。
 ターンテーブルに置かれるレコード。流れてくる曲は「フィッシュストーリー」。
 「セックスピストルズがデビューする前年に、日本にもパンクバンドがあったんだ」
 そう店長が言います。一九七六年、ロンドンでセックスピストルズが結成された
のがパンクの創世だとされていますが、その前年に実は日本でパンクのスピリットを体現するバンドが存在していたのだ——そういうお話です。

「届けよ、誰かに。頼むから」

 バンドの名前は「逆鱗(げきりん)」と言いました。レコード会社社員の岡崎に見いだされた彼らですが、アルバムを三枚出してもまったく売れません。岡崎はついに社長から「もう契約を切れ」と通告されてしまいます。
 あと一枚だけアルバムを出すことを許され、彼らは最後のレコーディングに向かいます。でも、だれにも理解されないことを自分たちがいちばんわかっていながら。

「最後の一枚か・・」
「今度のアルバムが売れたら社長の考えも変わるかもしれないし」
「わかってるだろ。次も売れねえよ」
「そうだな・・・・」
「俺たちの曲は理解されねえ。そして何より厄介なのは」
「厄介なのは?」
「俺たちは自分たちの音楽が正しいと信じてる」
「言えてるな」
「さて、次の仕事探すか。食ってかなきゃいけねえしな」

 最後のレコーディング。最後の自信作「フィッシュストーリー」を一発録りしている途中、ボーカルの五郎は突然歌うのをやめてしまい、だれに届けているのかもわからない独白を始めます。

 岡崎さん、岡崎さん、これは誰かに届くのかな。
 なあ。誰か聴いてんのかよ。いまこのレコード聴いてるやつ教えてくれよ。届いてんのかよ。
 これすっげえいい曲なのに。誰にも届かないのかよ。嘘だろ。この曲は誰に届くんだよ。
 届けよ、誰かに。頼むから。

歴史の霧へと消えて行った人たち

 でも結局、この曲もヒットしませんでした。「フィッシュストーリー」もバンド「逆鱗」も歴史の霧のなかへと棄てされられて、消えて行ってしまいます。
 売れなくて解散したバンド、という過去に無数に繰り返されてきた物語がまたもひとつ小さく繰り返されただけだったのです。
 そういう市井の小さな物語、市井の小さな人生。この映画では、そのような物語がいくつも語られていきます。
 戦後の混乱期。彫りの深い顔立ちをしていたためにうっかりアメリカ人に間違えられ、出版社にできもしない書籍の翻訳を任せられてしまった男。誤訳だらけの本をつくり、出版社に返本の山を作ってしまいます。
 一九八二年、気の弱い大学生の男の子。せっかく自家用車を持っているのに押しの強い友人にタクシー代わりに使われ、かわいい女の子も目の前で奪われてしまいます。
 二〇〇九年、少しぼおっとした育ちの良さそうな女子高校生。神戸から東京への修学旅行の途中、うたた寝しているうちにフェリーにひとり取り残されてしまいます。

 平凡な人生。自分が社会の役にたっているとは、登場人物のだれも思っていません。そういう市井の無数の物語。
 でも本当にそうでしょうか? 僕たちはこうやって生きて、日々の生活を送って、人を愛し、人と語り、誰かから影響を受けて誰かに影響を与えている。そういう無数のやりとりの中で、僕らは社会につながっているのです。

物語と物語がつながり、未来がつむがれる

 だったらそういう無数の物語の集積の先に、神経のシナプスがパチン、パチンとつながっていって電流が走り、思考が生まれるように、どこかで誰かの作った物語と物語がつながっていって、それが地球を最後に救うことだってあるのかもしれない。
 それが、この素敵な映画のメッセージなのです。

 映画の終盤、バンドは最後のレコーディングを終え、居酒屋でくつろいでいます。
 虚脱する彼ら。
 岡崎は言います。
 「フィッシュストーリーは数年後、数十年後、きっといつか誰かの心に届く。俺はそう信じてる、いつまでもそう信じてる」
 そして彼は、こうつけ加えるのです。

「俺たちがこの時代で届かなかった思いがさ、時空を越えてつながっていくんだ。あってもいいんじゃないかな、それぐらいのこと。そういうふうにできてるんじゃないかな、世の中って」

 そのように世の中ができていることを、いま僕は信じはじめています。

(了)

著者プロフィール

佐々木 俊尚
1961年生まれ。早稲田大学政経学部中退。毎日新聞記者、月刊アスキー編集部デスクを経てフリージャーナリスト。主にIT・メディア分野を取材している。「キュレーションの時代」(ちくま新書)「仕事するのにオフィスはいらない」(光文社新書)「電子書籍の衝撃」(ディスカヴァー・トゥエンティワン)など著書多数。
http://www.pressa.jp/
松尾 たいこ
広島県生まれ。第16回ザ・チョイス年度賞鈴木成一賞受賞。著作に作品集「Layered」(パルコ出版)や角田光代氏との共著「Presents」(双葉社)「なくしたものたちの国」(集英社)がある。
これまで250冊以上の書籍装丁画を手がけたほか、広告、CDジャケット、雑誌、ファッションブランドやミュージアムショップにも作品を提供するなど幅広い分野で活躍。
http://taikomatsuo.jimdo.com/